東京電力社長に那須翔氏が就任した1984年。東電は石油危機の苦難を脱し、「守り」から「攻め」へと本格的に転じる潮目を迎えていた。
就任早々の那須氏が強調したのは「お客さまの側に立った物の見方」だ。“親方日の丸”の体質がしみついていた電力会社の経営に「顧客サービス」の意識改革を促した。
そして、「21世紀を目指す経営の基本方向について」と題した行動計画をまとめ、技術革新や効率性を高めた体質強化を推し進めた。「(電気の拡販に)臆病であってはならない」とはっきりした物言いで成長路線を推し進める一方、通信事業に進出するなど、多角化にも積極的に乗り出した。
東電社長出身で財界に確固たる影響力を残した木川田一隆、平岩外四の両氏に仕えたことから、政財官界とのパイプも太かった。財界では、情報収集の速さや腰の低さでも定評があり、平岩氏からは「切れ味のいい人」と言わしめた。
趣味はスポーツで、特にJリーグなど日本のサッカー界との親交が深かった。Jヴィレッジの開設やFC東京の設立にかかわったほか、日韓共催で行われた2002年のワールドカップでは日本組織委員会会長を務めた。(小島清利)