【ホンダ 米国戦略の岐路】(上)拡大路線裏目…「世界6極体制」揺らぐ理念 (1/3ページ)


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  • ホンダが1982年に日系自動車メーカーで初めて乗用車の米国生産を始めたメアリズビル工場=10日、米オハイオ州(会田聡撮影)
  • ホンダが日系メーカーで初めて米国生産した「アコード」のラインオフ式で第1号車を披露し、挨拶する2代目社長の河島喜好=1982年11月1日、米オハイオ州メアリズビル(同社提供)

 日系初の現地生産

 1989年10月、米オハイオ州メアリズビル。州都コロンバス郊外の小さな町にあるホンダの工場を、創業者の本田宗一郎=当時(82)=が訪れた。約37万平方メートルの広大な敷地を妻、さちとカートを乗り降りして回り、「どうも、どうも」と言いながら笑顔で従業員に近づき握手を求めた。

 視察の遅れを気遣ったさちは途中から、身長約160センチの小柄な身体で動き回る宗一郎のズボンのポケットをつかんで離さなかったという。

 2人に付き添った、工場の現上級副社長、トム・シュープ(56)は「周囲を引き付ける磁石のような人だった」と振り返る。

 78年に設立した同工場は、創業期から世界を見据えた宗一郎の「思い」の象徴だ。70年代に起きた2度の石油危機で、米国ではホンダの小型車「シビック」など燃費の良い日本車の人気が一気に高まり、輸出が急増した。これに対し、米大手ゼネラル・モーターズ(GM)などビッグ3が反発。日米の貿易摩擦が激しくなる中、ホンダは82年に同工場でセダン「アコード」の生産を開始。日系メーカーで初めて乗用車の現地生産に踏み切った。

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「世界に市場を求め、需要がある所で生産する」という経営理念