
給油を待つ車の列=2011年3月17日、岩手県・住田町【拡大】
■200キロの壁、ガソリン不足
被災地向けに石油を安定供給する方策が各方面で検討されていた。政府は当初、石油生産の能力低下に強い危惧を抱いていた。石油元売りは製油所のフル操業や韓国などからの石油製品の輸入検討を進めていた。だが、西日本や北海道の製油所はほぼ無傷だった。関東でも出光興産の千葉製油所、富士石油の袖ヶ浦製油所、東亜石油京浜製油所扇町工場などは操業を続けており、「石油は十分足りていた」(石油連盟)。問題は物流にあった。
SSに8キロ行列
陸路の生命線となる東北自動車道は、震災翌日までに復旧が進み、緊急車両の走行が可能になった。タンクローリーでの大量輸送が期待されたが、現地での保管場所が確保できず、すぐに壁に突き当たった。
港湾部や鉄道で運ぶ内陸油槽所には大型タンクが、ガソリンスタンド(GS)やサービスステーション(SS)も小規模な地下タンクがある。しかし、津波被害で沿岸部の保管施設は壊滅し、被害を免れた内陸部施設も東北全域で発生した停電で正常に稼働できなかった。
電力会社の懸命の復旧作業で震災による停電は3日程度で約80%が解消し、自家発電用の燃料不足は軽減していったが、住民レベルのガソリン不足が顕在化し始めた。電力供給を受けて営業を再開したGS、SSには給油を待つ車列ができ、在庫は瞬く間に底をついた。
関東・南東北でSSを展開する関彰商事の曲山浩範・東北支店長は福島県内19店舗の総責任者だった当時、SSに並ぶ車の長蛇の列に仰天した。
「一時は最大で7~8キロも並んだ。開店後まもなく在庫がなくなって、事情を説明しても客は帰らない。『次の入荷まで待つ』と」。「行列の車の燃料メーターをみると半分以上残っている客が多かった」と曲山さん。とにかくガソリンがほしいという「満タン願望」が石油不足に拍車をかけた。