【スポーツbiz】キリン、サッカー日本代表の協賛のきっかけは「たまたま…」 語り継がれる逸話 (2/3ページ)

サッカーW杯アジア最終予選対オーストラリア戦で、ゴールを決める浅野拓磨=8月31日、埼玉スタジアム
サッカーW杯アジア最終予選対オーストラリア戦で、ゴールを決める浅野拓磨=8月31日、埼玉スタジアム【拡大】

 テレビを活用したこうした試み、もし負けたらというリスクも伴うから簡単には踏み切れない。そこを突破したキリンとテレビ朝日の思いを、香川さんがこう代弁した。「生放送の力はすごい」

 たまたま、ご近所

 思えば、キリンがサッカー日本代表の協賛を始めたのは1978年に遡(さかのぼ)る。

 もはや有名になりすぎた逸話だが、背景は「たまたま、ご近所だった」からに過ぎない。

 当時、JFAは現在の文京区本郷の「サッカービル」ではなく、渋谷区神南の岸記念体育会館に事務局を置いていた。キリンもまた、渋谷区神宮前に本社があった。中央区新川を経て、現在の中野区中野に移転する前である。山手線を挟んで、大きく「原宿」の、いってみれば町内会のような関係だった。

 サッカーはまだ、冬の時代である。強化、普及のためには戦う場、いや何より財源が必要とされた。だが、弱い日本サッカーには有力なスポンサーはいない。

 そんなある日、JFAの長沼健専務理事(後にJFA会長。故人)はキリン本社を訪ねた。戦う場の創設を手伝ってもらいたい、という話である。

 当時の小西秀次社長は、話を聞くと、「わかった」。そこで誕生したのが本格的な国際試合の「ジャパンカップ」、後の「キリンカップ」「キリンチャレンジ」であった。

 近所の誼(よしみ)、当時流行し始めた社会貢献への意識もあったのだろう。生前の長沼さんからこんな話を聞いたことがある。

 「いつも窓越しに眺めていたロゴが印象的でね。ダメもとで、ちょっと行ってみようか、そんな気持ちだったんだよ」

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