中国の改革・開放路線への転換とともに、故トウ小平氏が世界に名をとどろかせたのが1989年の天安門事件だ。当時の最高実力者として、学生らによる民主化要求運動を武力弾圧すると決め、少なくとも319人の死者を出した。死去から20年を経たが、習近平指導部も決定の正当性を主張。社会への締め付け強化など政治改革は後退している。
天安門事件から10年がたった99年6月4日、民主化運動の中心的役割を果たした北京大では、多くの学生たちがビールの小瓶を寮の窓から外に投げて割った。
トウ氏の名前「小平」と「小瓶」が中国語で同じ発音であることにかけて、トウ氏への抗議を示す行為だった。
だが現在、中国国内ではインターネット規制により天安門事件の情報は完全に遮断され、事件が起きたことすら知らない学生が多い。
北京のある大学教授は、事件が共産党の一党独裁を大きく揺るがしたと指摘し「習国家主席は事件を通じ『独裁維持のためにはいかなる強硬措置でも取る』という手法をトウ氏から学んだ」とみる。それが民主化を求める多くの人権活動家や弁護士の拘束、厳しいメディア規制など強権的な社会統制につながっている。
当時の学生らが求めた「反腐敗」は、習指導部の下で表面的には進んでいるように見える。だが同教授は「大衆受けする『反腐敗』が自身に有益と判断しただけで、権力集中の手段にしているのが実態だ」と分析。「習氏にとっては独裁維持が最も重要だ。政治改革を進めることはあり得ない」と批判した。(北京 共同)