日本初のケーブルカーとして大正7年に開業した奈良県生駒市の「生駒ケーブル」(近鉄生駒鋼索線)が8月29日、100周年を迎えた。もともとは生駒山(642メートル)中腹にある宝山寺へのアクセスとして開業し、関西で老舗の行楽地として知られる山上遊園地へレジャー客を運ぶほか、沿線住民の通勤・通学の足として活躍してきた。戦時中にレールが一部撤去され廃線の危機に見舞われるなど、紆余(うよ)曲折を経て100歳となったケーブルカー。その歴史を振り返る。(藤木祥平)
海外の文献参考に設計
「本日午後三時十二分ヨリ開始仕候-」
大正7年8月29日。生駒鋼索(こうさく)鉄道(近鉄の前身の大阪電気軌道と同11年に合併)の鍵田忠次郎専務がしたためた「運輸営業開始御届」には、こんな文面が残されている。ケーブルカーが開業したのは、富山で米騒動が勃発した翌月のことだった。
「生駒の聖天さん」として信仰を集める真言律宗の大本山、宝山寺。ケーブルカーの建設計画が持ち上がったのは、険しい登山道を往来する参拝者のためだ。ただ山の中腹と山麓を線路で結び、急斜面に車両を走らせる試みは日本では前例がなかった。
「その頃にはまだ我国の何処にも登山鉄道はなく、(中略)海外における文献を集めて勉強を始め、身の程も知らず実施設計に手を染めたので、今も当時を顧みて冷汗の思いがする」
設計者の一人で、大阪電気軌道の取締役を務めた大戸武之氏は「鍵田忠次郎翁伝」(昭和31年発刊)にこうつづっている。