そこに漁船や労働力、燃料の不足が加わり漁獲高は激減した。復員兵・引き揚げ者650万人も祖国帰還を始めた。大蔵大臣は「餓死者1000万人の可能性」まで公言。元帥がハリー・トルーマン米大統領(1884~1972年)に「食料を送るのか(日本人暴動に備えた)援軍を送るのか」と迫る深刻な事態だった。
降伏調印よりわずか2カ月後の昭和20年11月、聯合国軍総司令部=GHQは、日本が加盟していなかった国際捕鯨取締協定(現国際捕鯨取締条約の前身)の全面順守を前提に、鯨肉を日本国民に広く供給するためマッカーサー・ライン内での捕鯨を許可した。マッカーサー・ラインとは20年9月にGHQが出した日本漁船が操業できる海域を規制した区画で、25年までに少しずつ拡大していった。
ところが、もともと捕鯨基地のあった小笠原諸島の沿岸はライン外で寄港できないから、海上基地=母船は不可欠だった。だのに、日本の捕鯨母船は特設運送船に、捕鯨船=キャッチャーボートも爆雷・捕獲網を積み潜水艦狩りを担う特設駆潜艇・捕獲網艇や、機雷を除去する特設掃海艇として、それぞれ徴用され、多くは沈められた。GHQに最初に捕鯨を申請し許可された大洋漁業(現マルハニチロ水産)は、船探しに奔走した。