統治・国防能力無き国家は、南下を目論(もくろ)むロシアの格好の標的だった。だのに、大韓帝國はロシアに擦り寄る。こうした大韓帝國の惨状・背信に耐えられず、日露戦争中の第一次日韓協約(1904年)で、日本人顧問の政府中枢配置を義務付ける。日露戦争終結後の05年には、二次協約で外交権を、07年の三次協約で内政権も、それぞれ日本に移管した。斯くして10年、大韓帝國は日本に併合された。
「排日事大主義」を堅持
高宗の外交上の無礼や国際感覚の欠如が、大韓帝國を滅亡させた、とも言える。一次協約を破棄せんと高宗は、あろうことか日本と交戦中のロシアをはじめフランスや米国、英国に次々と密使を送る。よもや日本が、ロシアに勝てるとは思ってもみなかったのだろう。外交案件につき日本との協議を定めた一次協約の明らかな違反。二次協約で日本の保護国になった後も協約無効を訴え、英仏などに親書を送った。07年には、オランダで開催中の万国平和会議にまで密使を派遣、外交権回復を訴えようとしたが、国際社会は会議参加すら拒絶した。米英露など列強が、日本の大韓帝國に対する排他的指導権=保護国化を、既に相次ぎ承認していたためだ。