無駄に終わり水に流される孤独
以前の回顧展との最大の違いは、ごく初期の作品や、思いのほか早く訪れた晩年の作品について、きわめて充実した展示がされていることだろう。前者の時代の絵画に、すでに後の工藤らしさの萌芽(ほうが)があることを確かめたのは新鮮な発見だった。他方、病を抱え死の予感を身近に、母校の東京芸大で教鞭(きょうべん)をとるため日本に帰国してからの作品は、まるで工藤自身が彼の記憶を遠い故郷に遡(さかのぼ)るように、青森の風土や民俗を思わせる、派手だが土(乳?)臭い作風へと変貌している。
が、これらの紆余(うよ)曲折を経てなお、工藤の作品に一貫して見い出せるのは、私たちひとりひとりの個を超え、人類の遺伝子をあてどなく運ぶ精子を思わせる造形だろう。ある意味、工藤は一貫して、その大半が無駄に終わり水に流される精子の孤独を描いて来たとさえ私には思われる。その意味で、工藤の正統的な後継者は、特殊漫画家の根本敬ではないか。工藤が繰り返し扱った放射能というもうひとつの主題が現実化した3・11以後の世界のなかで、工藤への理解の新しい頁が開く予感がした。(多摩美術大学教授 椹木野衣/SANKEI EXPRESS)