棋士は続けた。「でも、何でもそうですが、やりすぎてしまうと後が大変です。ほんの少しの差でいいんです。勝てばいいんですから。慢心が出ると、必ずやられます」
戦いは、こてんぱんにやっつけたほうが爽快だと思っていた。「勝負が日常」の世界は、そんな見た目とは無縁だった。最後に勝つために、ただ静かに淡々と自分の「よりよい手」を打つ。その手を指す武器は、自分の頭と心しかない。何と厳しい世界だろう。
静かに、静かに対局は進む。十段戦五番勝負は1日かけて1対局。ふと目を離した隙に局面ががらりと変わることもあり、静かなのに盤上は熱い。朝から晩まで双方が頭と心を使いきって、それでも勝者と敗者は決まる。感想戦の対局室は燃え尽きたような、何ともいえない空気に包まれていた。
ここまでは難しいけれど、大事なところで自分は勝負をしているだろうか。仕事でなまけそうになると、あの張り詰めた空気を思い出している。(小川記代子/SANKEI EXPRESS)