となると、その際、大事になってくるのは原材料の確保だが、例えば文豪と呼ばれる夏目漱石や森鴎外といった人の仕入力は凄まじく、欧羅巴の言葉で書かれた書物や漢籍から大量の言葉を仕入れ、これを組み立てている。或いは、現代の作家でも、教養があり外国語も読みこなす人の仕入力は凄くて、随所にアッと驚いたり感心のあまり唸ってしまうような表現が見られる。
その段、私はどうだろうか。まったく駄目である。読み狂人といっても、自分が関心があり、読んで理解できそうなものだけを啄(ついば)むように読んでいるだけだし、たまによい本を読んでも生来が愚鈍なのでそこから善きものを仕入れることができない。ところが、市井のおっさんおばはんや、ゲーセンに溜まりプリクラに群がっているような兄ちゃんねぇちゃんの話し言葉ならスコスコ頭に入ってきて、数においても質においても、教養のある書き手に圧倒的に劣る仕入れしかできておらないのが現状である。
現在と過去をつなぐ
そんな私にとって、「増補改訂版米朝落語全集」は宝の山である。桂米朝という人は誰でも知っているとおり、上方落語の偉人であるが、この全集を読んで私は、日本語の偉人でもあると思った。