だが、いざ滞在してみると、それとはまったく別の価値がある宿だと僕は気づく。宿の来歴や建築的蘊蓄(うんちく)とは別の次元で、何だか自然と心地よいのである。そう、知ることより、感じることを大切にしている宿だと僕には思えたのだ。
建物の古さ、断熱の苦労、景色のためにジャッキアップして20メートルも移動させた露天風呂のつくり方は『温泉批評』(4)の記事に詳細がある。資金繰りについても細かく伝えるその奮闘記も読み応えは抜群。汗と緊張感なくして、いいものが出来上がるはずもない。けれど、実際の「里山十帖」に流れる空気と時間ときたら…、その緩やかなること。ゆっくり歩き、いろいろなものに躓き、周囲をよく眺め留まっているうちに、だんだん五感のポテンシャルが呼び覚まされる。
自慢の饗応料理も感じるがまま。地産地消とか、有機JAS認証などという概念や規格の以前に「うまい!」という感動がやってくる。春の野菜の力強さが押し寄せてくるのだ。天然のせりはこんなにも爽やかで甘苦い野菜だったのか。葉たまねぎとは、なんと柔らかい食感なのだ。僕は心の赴くまま野菜づくしの料理ととびきりの日本酒(「鶴齢」と「雪男」)を自身に染み込ませたのだった。
部屋が特別に広いわけでもないし、豪華アメニティが準備されているわけでもない。古い建物だから防音にも限界があるし、スタッフの数も多くない。