「避戦」に徹した共産党軍
支那事変~大東亜戦争中、共産党系軍は一部が遊撃(ゲリラ)戦を行ったものの、帝國陸海軍と国民党軍の戦闘を可能な限り傍観し、戦力温存に専心。同じく帝國陸海軍から逃げ回った国民党軍の「退嬰的戦法」をはるかに凌駕した。実際、後の初代国家主席・毛沢東(1893~1976年)は「力の七割は共産党支配地域拡大、二割は妥協、一割が抗日戦」と指導。帝國陸軍が中華民国首都・南京を陥落(1937年)させると、祝杯の大酒を仰いでいる。
従って「偉大な勝利」など有り得ない。「永遠に中華民族史と人類の平和史に刻まれる」べきは、人民大殺戮と非戦ならぬ徹底した「避戦」であった。
「避戦」は、毛が周到に打ち立てた大戦略《持久戦論》の重要構成要素だった。が、この持久戦論は図らずも、共産党系軍が最後の最後まで日本に勝利できなかった動かぬ証拠を歴史に刻んでしまう。持久戦論は以下のような前提に立つ。
《日本は軍事・経済力共に東洋一で、中国は速戦速勝できない。だが、日本は国土が小さく、人口も少なく、資源も乏しい。寡兵をもって、広大な中国で、多数の兵力に挑んでいる。一部の大都市/幹線道路などを占領しうるに過ぎず、長期戦には耐えられぬ。敵後方で『遊撃戦』を展開し、内部崩壊を促せば、中国は最後に勝利する》