この地に生まれた田中さんは、日本の高度成長期に青春時代を迎え、当然のように島を出て大阪で暮らしていました。ある日、店頭で、白い粉が皮一杯に付着したみかんを目にします。大量生産、大量消費を良しとする時代。農薬にまみれた皮をむいた手で、口に果実を運ぶことに何の抵抗も持たない人々。ものがあふれ著しく変化していく世の中、本当の豊かさとはなんだろうと考えた時に、故郷のみかん山を思い出したそうです。昭和24~25年頃に父親が始めた、みかん山に行くことが子供の頃の日課でした。
「自分はみかんを作るために生まれてきたのではないか」そんな思いに導かれ、家族とともに屋久島へ帰ったのは、昭和49年のことでした。
吉田集落は105世帯余り、人口300人ほど小さな村でしたが、当時はポンカン景気で潤っていました。5月に花が咲き12月が収穫時期のポンカンは、香りと甘みのある南国の高級果実として、お歳暮商品として人気を集めていました。