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極北の精神を綴った吉田一穂の詩魂 北海道でなきゃ、こんな詩人は生まれない 松岡正剛

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極北の精神を綴った吉田一穂の詩魂 北海道でなきゃ、こんな詩人は生まれない 松岡正剛

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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)  【BOOKWARE】

 ぼくは吉田一穂(いっすい)を、いっとき「ブラキストン線の向こう側の詩人」と名付けていたことがある。20代後半に一穂の『黒潮回帰』や『古代緑地』に傾倒していたころだ。ブラキストン線というのは津軽海峡に重なる北海道と本州を分ける生物分布境界線のことをいう。一穂は北海道の上磯郡木古町の漁師の家に生まれ、16歳まで海辺で青春をおくったのである。1898年の生まれだ。

 一穂の詩は『母』がよく知られている。「ああ麗はしいディスタンス、つねに遠のいていく風景…。悲しみの彼方、母への、捜(さぐ)り打つ夜半のピアニッシモ。」というものだ。澁澤龍彦さんが「ぼく、これが大好きなんだよ」と言っていた。

 しかし、一穂の詩は長らく難解とも抽象的とも言われ、孤高の詩人扱いをされてきた。たとえば「自我系の暗礁めぐる銀河の魚。コペルニカス以前の泥の拡がり…。睡眠の内側で泥炭層が燃え始める」。たしかに難しい。漢字に独特のカナるびが振ってあることも多い。たとえば「口笛ならして鳥に描かせる空間の形象(カリグラム) 蜜蜂は透明な白昼の洋燈(ラムプ)を点してゆく」というふうに。カッコ内がルビになる。

 けれども、一穂を難解だからと放置しておいてはいけない。北方の遠い記憶をよびさますために綴った詩篇には、ついつい忘れがちな日本人の奥の問題が疼くのだ。黒潮の息吹・白鳥の伝説・太古の衝動が蘇るように凝集されているのだ。吉本隆明はこんなふうに指摘した。一穂の詩は「意識」だけからできていて、無意識の混入を排除するように作られている。呼吸をつめて人はどれくらい生きられるのかという問いに対して、吉田一穂は「生涯!」と答えられる詩人だと思う、と。

 岩波文庫の『吉田一穂詩集』を構成解説した加藤郁乎は、かつてこんなことを言っていた。「まず北原白秋でしょう。次が西脇順三郎で、そして吉田一穂ですよ。日本の詩人はこの3人ですべてです」。

 もっとも一穂は詩人の仕事だけをしたのではなかった。たくさんの童話も書いた。『海の人形』『銀河の魚』『かしの木と小鳥』などの童話集がある。『もも』という童話は、子供に「桃太郎ってほんとにいるの」と聞かれたお父さんが、種をまいて育てれば桃太郎になると言うので、楽しみに待っていると、子供が育つほうが早いので、大きくなって訝(いぶか)ると、お父さんが笑って「おまえが桃太郎なんだ」という話になっている。すばらしく優しい出来栄えだ。

 さらに一穂の深さを決定的に特徴付けるのは『黒潮回帰』や『古代緑地』などのエッセイ群である。ぼくは20代にこの「最深観念の幾何学」ともいうべき内容と文体にびっくりしたのである。そして、こんな極北の表現者はもうめったに出ないだろうなと思ったものだった。

 【KEY BOOK】「吉田一穂大系3冊組(仮面社/7500円、在庫なし)

 1970年に、ぼくの友人が丹精をこめてつくった美しい函入り全集だ。いまや入手困難だが、ここにすべての一穂が北方を遠望していた。その後、小沢書店からも全3巻定本版が刊行された。こちらも充実している。吉田一穂を読むということは、日本人が到達できた極北の精神性にまどろむということである。たしかに難解な言葉づかいが多いけれど、一度読み始めたら、自身の「内なる地軸」のようなものが揺さぶられて、比類のない知的酩酊を悦楽することができる。加藤郁乎が言うように、こんな極上を味わえるのは、たしかに一穂か西脇順三郎くらいのものだろう。言葉はここまで緻密になるのかという驚異に触れてほしい。

 【KEY BOOK】「吉田一穂詩集」(加藤郁乎編/岩波文庫、798円、在庫なし)

 入手しやすい一穂詩集は思潮社の現代詩文庫か、岩波文庫版だ。こんなふうにポケットに入る一穂がいるだなんて、羨ましい。そういえば、17歳の一穂が北海道をあとに東京に向かったとき、鞄に入っていたのは北原白秋の『桐の花』一冊だった。その思いは白秋のいた早稲田に直結し、白秋・三木露風・佐藤一英・横光利一・中山義秀らと交流するとともに、ケルト文学やダンセーニやエズラ・パウンドの熱中に向かった。これでもわかるように、一穂はつねに北方志向なのである。それをぼくは「詩魂のポーラリゼーション」と名付けてきた。人間の記憶の果てに眠る原形の思索に耽ること、それを凝縮した詩に集約すること、それが一穂の修行というものだった。

 【KEY BOOK】「詩人吉田一穂の世界」(井尻正二著/築地書館、3900円、在庫なし)

 井尻さんは日本を代表する地質学者であって、化石学者だった。ぼくも自宅に押しかけて、たくさんの化石を見せてもらったことがある。カルピスの紙箱や森永のクッキーの箱が所狭しと並んでいた。その井尻さんが最も好きな詩人が吉田一穂だった。「松岡さん、科学者は吉田一穂を読まなくちゃダメですよ」と言っていた。一穂には幾何学や自然科学のもつ厳密な彫琢力(ちょうたくりょく)があったのだ。それは、科学の精髄が到達できる浪漫というものでもあった。井尻さんはそこに感服して、本書を書いたのである。理科系の諸君にも必読だ。新しい評論としては、吉田美和子『吉田一穂の世界』(小沢書店)、田村圭司『吉田一穂 究極の詩の構図』(笠間書院)も読まれるといい。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS

 ■まつおか・せいごう 編集工学研究所所長・イシス編集学校校長。80年代、編集工学を提唱。以降、情報文化と情報技術をつなぐ研究開発プロジェクトをリードする一方、日本文化研究の第一人者として私塾を多数開催。おもな著書に『松岡正剛千夜千冊(全7巻)』ほか多数。「松岡正剛千夜千冊」

http://1000ya.isis.ne.jp/

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