ニュースカテゴリ:EX CONTENTS
エンタメ
【溝への落とし物】失踪日記 本谷有希子
更新
配線を記録しようと撮った一枚(本谷有希子さん撮影)
ある日、その人の財布からキャッシュカードが出ていった。
さよならのひと言もなしに。
引っ越しの準備でここのところ忙しくしていたその人は、隠れているのだろうとタカを括(くく)って、財布の切れ込みを一つ一つ笑いながら探した。
だが、カードは見つからなかった。
その人は昼まで待った。食事を済ませ、コーヒーを飲み終わったあと、テーブルの上に置かれていた財布を覗(のぞ)きこみ、カードが本当に自分の元から消えてしまったことを知った。
その人はカードの色を思い出すことができなかった。赤だった気もするし、銀だった気もする。
「私のことなんて、どうせお金を払うだけの存在だと思ってるんでしょ」
その人は、いつかカードが自分にそう言ったことを思い出した。雨の日のコンビニ。ATMの前で。カードの言葉を笑って聞き流し、その人は嫌がるその体を無理矢理財布から引き抜いて、機械の挿入口に無造作に差し込んだ。
「金が欲しい時だけ」と言いながら、カードはATMの中に吸い込まれていった。
カードがいなくなり、その人は不安に襲われた。カードの居場所が気になって仕方なかった。財布から落ちて、今ごろどこかのゴミ箱に紛れ込んでいるならいい。だがもし、カードが自分以外の別の誰かのものになっていたら。
心当たりが1つだけあった。2日前に来た引っ越し業者のことだ。あの引っ越しの時、その人は財布を入れたバッグをリビングに置き、何度か目を離してしまった。まさかあんな限られた空間で、堂々と人のカードに手を出す人間がいるなんて思いもしなかったのだ。
その人は、青年たちの顔を思い浮かべた。本当にあの子たちの中の誰かが、自分からカードを奪ったのだろうか。信じられない。言葉巧みに唆(そそのか)し、自分をあっさり捨てるようにカードに吹き込んだのだろうか。それとも、引っ越しのどさくさにまぎれて逃げ出すことはもっと前から決まっており、自分だけが何も知らず、彼らに缶コーヒーを振る舞っていたのか。
カードはもう、その男の手で裸同然にされているかもしれない。
その人はカードに日頃から暗証番号で身を守らせていた。貞淑なカードでいてもらいたかったのだ。だが、きっと相手はプロだろう。カードをたらしこむことなど、造作ないに違いなかった。自分を裏切り、カードが新しい男にせっせと金を吐き出すのは悔しかったが、その人はカードと青年が本当に愛し合っているならば、それも仕方ないのかもしれないと思った。自分が寂しい思いをさせていなければ、カードも裏切らなかったに違いないのだ。だが、その新しい男は本当に信用できるやつなのだろうか? 目的は金ではないのか?
その人は、貢いだ揚げ句、男にゴミ同然に捨てられるカードのことを考え、胸が張り裂けそうになった。カードはきっと身元を分からなくするためハサミで裁断されるだろう。カードが最後に見るものは、自分を無表情で切り刻んでいる愛した青年なのだ。
その人は、なぜカードのことをもっとちゃんと大事にしてやらなかったんだろう、と悔やんだ。
カードはいつも自分の側にいてくれたのに、と歯を噛み締めた。
もしもう一度会うことができたら、今度はカードを絶対に幸せにするのに。その人はさめざめと泣きながら、荷解きの続きを始めた。葬儀の棺(ひつぎ)に触るような気持ちで、〈机周り〉とマジックで書かれた段ボールを開けると、見覚えのある何かがクリアファイルの陰から「ばあ!」と飛び出してきた。カードだった。
その人は、それから一生カードと幸せに暮らした。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子/SANKEI EXPRESS (動画))