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澱のように沈殿する朽ちない記憶 「あなたの肖像-工藤哲巳回顧展」 椹木野衣
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美術家、工藤哲巳の生涯を辿(たど)る大規模な回顧展が東京国立近代美術館で開催中だ。長く知る人ぞ知る存在であったが、今では欧米のアート界でも高い評価を受けている。東京と大阪のふたつの独立行政法人国立美術館、工藤が育った青森の県立美術館で開かれる今回の巡回展は、一見してわかりにくいだけでなく、複雑怪奇でさえある彼の仕事を振り返るうえで、またとない好機といえるだろう。
なにが難解なのか。絵画とも彫刻ともつかぬ工藤の作品は、どれも造形以前の肉塊のようで、見ていて気持ちよいものでは決してない。原色で塗りたくった色使いにヌメヌメした樹脂のような光沢。何重にも巻き付けられたひものような装飾のあいだからは目玉、口、鼻、さらには内臓やペニスを思わせる人体のパーツが見え隠れする。人によっては生理的な嫌悪さえ覚えるだろう。けれども、それこそが工藤の作品の真骨頂なのである。
工藤の作品は、見る者の心理や体感に思いのほか消えづらい傷を刻みつける。実際、数十年にわたる私の工藤体験は、その時々に、かんたんには忘れられないトラウマのような感触を残してきた。
初めて見たのは、まだ高校生のころのことだった。場所は、今回と同じ東京国立近代美術館であったと思う。ギトギトに塗りたくられた乳母車の中からはみ出しているのは、可愛いらしい幼児ではなく巨大な繭で、そこからへその緒のように延びた先には、巨大な脳みそが床に横たわっている。そして、どこからともなく聞こえてくる姿の見えない赤ん坊の泣き声。
こんな代物は、場末のお化け屋敷にあってもまったく不思議ではない。立派な美術品が並ぶはずの館内で、まるで妖怪のような作品に出合うとは! 若い私はまったく意表をつかれた。あれから30年の時が経ち、私も国内外でずいぶんとたくさんの美術作品を見て来たけれども、あのときのショックが完全に心の中から引くことはない。
生涯にわたって消えないであろうその記憶をかたちづくった主、工藤哲巳という名の風変わりな美術家の作品をまとめて観る機会を得たのは、それからずいぶん経ってからのことだった。1994年、当時は大阪の万博公園にあった国立国際美術館で、工藤の国内初となる大きな回顧展が開かれたのだ。
勇んで出かけた私は、意外にもまったく人気のない会場で、もう一度あの作品に出合った。市の中心部から遠く離れ、公園の入り口からもさらに長く歩いたどんつきにある廃虚のような美術館に、わざわざ工藤の作品を観に出かける物好きがいないのは理解できる。しかし私にとっては、母校で現代美術の講義を受けた美術評論家、故・中村敬二が、大学を辞して美術館に移籍してまで手掛けた展覧会でもあった。私はその展覧会の規模の大きさに釣り合わぬ閑散さと、相変わらずの作品の醜さと中村の工藤への謎めいた情熱に、以前とはまた違う複雑な感銘を受けた。
今回、前とは比べ物にならぬほど洗練された場所と空間のなかで一堂に会した工藤の仕事を回顧しても、過去に受けたこれらの印象が覆ることはない。そして、なにかのきっかけで偶然この展示を観てしまった者にとっても、工藤の名前こそ忘れても、「あれはいったいなんだったのだろう?」というおぼろげな記憶だけは、かんたんには朽ちずに長く残り続けるだろう。そして思いもつかぬとき、不意に噴出して彼や彼女を驚かせるはずだ。
こうして、たんに意識して目で見るのだけではなく、観る者の心の底に澱(おり)のようにゆっくりと沈殿するその仕方が、工藤の作品の最大の特徴なのである。本展が工藤の代表作からとって「あなたの肖像」と名付けられるゆえんである。
以前の回顧展との最大の違いは、ごく初期の作品や、思いのほか早く訪れた晩年の作品について、きわめて充実した展示がされていることだろう。前者の時代の絵画に、すでに後の工藤らしさの萌芽(ほうが)があることを確かめたのは新鮮な発見だった。他方、病を抱え死の予感を身近に、母校の東京芸大で教鞭(きょうべん)をとるため日本に帰国してからの作品は、まるで工藤自身が彼の記憶を遠い故郷に遡(さかのぼ)るように、青森の風土や民俗を思わせる、派手だが土(乳?)臭い作風へと変貌している。
が、これらの紆余(うよ)曲折を経てなお、工藤の作品に一貫して見い出せるのは、私たちひとりひとりの個を超え、人類の遺伝子をあてどなく運ぶ精子を思わせる造形だろう。ある意味、工藤は一貫して、その大半が無駄に終わり水に流される精子の孤独を描いて来たとさえ私には思われる。その意味で、工藤の正統的な後継者は、特殊漫画家の根本敬ではないか。工藤が繰り返し扱った放射能というもうひとつの主題が現実化した3・11以後の世界のなかで、工藤への理解の新しい頁が開く予感がした。(多摩美術大学教授 椹木野衣/SANKEI EXPRESS)