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【勿忘草】初めての囲碁
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その部屋には静寂しかなかった。息をするのもためらわれる。「時間になりましたので始めます」。立会人の言葉を合図に、黒石が小気味いい音で打たれる。
ある程度の年齢になると「初」が少なくなるが、正真正銘、生まれて初めての体験をした。囲碁タイトル戦の開始に立ち会ったのである。
産経新聞社は囲碁タイトル戦の一つ、十段戦をもっている。4月、第3局と、さらに最終局の第5局を実際に見る機会に恵まれた。
対局室内の緊張感たるや、タイトルをかけた真剣勝負に臨む2人が、自分の1メートル先で向き合っている。正座の足のしびれを感じている余裕もない。二手目で退室したときには、思わず止めていた息を吐き出した。
人は戦うときがある。会社員だって自分の企画を実現させるために戦うことがあるだろう。もしくは家族を守るために、何かを守るために。でも、囲碁はそれ自体が戦いである。勝つか、負けるかしかない。
「囲碁は戦争なんですよ」。第3局で記録係を務めたプロ棋士が説明してくれた。碁石でより多くの陣地を作っていくのが囲碁だから、確かにそうだろう。
棋士は続けた。「でも、何でもそうですが、やりすぎてしまうと後が大変です。ほんの少しの差でいいんです。勝てばいいんですから。慢心が出ると、必ずやられます」
戦いは、こてんぱんにやっつけたほうが爽快だと思っていた。「勝負が日常」の世界は、そんな見た目とは無縁だった。最後に勝つために、ただ静かに淡々と自分の「よりよい手」を打つ。その手を指す武器は、自分の頭と心しかない。何と厳しい世界だろう。
静かに、静かに対局は進む。十段戦五番勝負は1日かけて1対局。ふと目を離した隙に局面ががらりと変わることもあり、静かなのに盤上は熱い。朝から晩まで双方が頭と心を使いきって、それでも勝者と敗者は決まる。感想戦の対局室は燃え尽きたような、何ともいえない空気に包まれていた。
ここまでは難しいけれど、大事なところで自分は勝負をしているだろうか。仕事でなまけそうになると、あの張り詰めた空気を思い出している。(小川記代子/SANKEI EXPRESS)