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生生と実感できる笑わせてきた言葉 町田康
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(町田康さん撮影)
私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人の私は以前にも申し上げた通り、書き狂人でもある。こちらの方は朝から晩までという訳ではないが、書きに狂いて牡蠣の土手鍋を食らいたる者、くらいなことにはなっている。
そんな書き狂人の私にとって言葉とはなんだろうか。
普通に考えれば、言葉は自らの思想や感情を伝えるための道具である。例えば、小説の中で登場人物を動かす場合、山の麓に小川が流れていた。その小川の畔に男が立っていた。男は名を吉岡と言った。男は左の小径に入っていって懐から牡丹餅を取り出して食べて言った。「餅は餅屋」と。といった具合に言葉を使って、作者の頭の中にある、男の言動やあたりの状況を提示するという寸法である。
或いは、そうして書いた文章を売って稿料を貰うこともあるので、言葉は文章を書くための原材料ということもできるだろう。原材料を脇から仕入れてきて、これを様々に組立て加工して売るという寸法である。
となると、その際、大事になってくるのは原材料の確保だが、例えば文豪と呼ばれる夏目漱石や森鴎外といった人の仕入力は凄まじく、欧羅巴の言葉で書かれた書物や漢籍から大量の言葉を仕入れ、これを組み立てている。或いは、現代の作家でも、教養があり外国語も読みこなす人の仕入力は凄くて、随所にアッと驚いたり感心のあまり唸ってしまうような表現が見られる。
その段、私はどうだろうか。まったく駄目である。読み狂人といっても、自分が関心があり、読んで理解できそうなものだけを啄(ついば)むように読んでいるだけだし、たまによい本を読んでも生来が愚鈍なのでそこから善きものを仕入れることができない。ところが、市井のおっさんおばはんや、ゲーセンに溜まりプリクラに群がっているような兄ちゃんねぇちゃんの話し言葉ならスコスコ頭に入ってきて、数においても質においても、教養のある書き手に圧倒的に劣る仕入れしかできておらないのが現状である。
そんな私にとって、「増補改訂版米朝落語全集」は宝の山である。桂米朝という人は誰でも知っているとおり、上方落語の偉人であるが、この全集を読んで私は、日本語の偉人でもあると思った。
その当時の写真を見るなりなんなりして思い出すとわかるが、実は私たちはつい十年前、二十年前の生活感覚とそれに根ざした言葉遣いというものを忘れてしまっている。
ところが落語という芸は、師匠から弟子に口伝えで伝えられる芸能なので、例えば百年前の生活感覚とそれに根ざした言葉が残っている。それを現代の観客におもしろく聞かせるための、ここに記される著者の高座での工夫は、そのまま、私たちが聞いたこともない、しかし、間違いなく人を通じて私たちの現代につながっているはずの過去の言葉を、私たちが生生と実感できる文章となっている。
もちろん、落語というのは、その語り口を耳で聞かせ、仕草・所作を目に見せてゲラゲラ笑わせるために発展してきた芸能で、私も落語を聞いて随分と笑ったが、しかし、ここでは、いまでは使われなくなった言葉が現れる度にそこで立ち止まり、その言葉をしみじみと味わい、感じ、私たちの現在と過去をつなぎ、現在を立体的に浮かび上がらせ、未来の言葉を豊かにすることができる。
なぜそんなことが可能なのか。それはここに記された言葉が一文字残らず、作者によって実際に上演され、客を笑わせてきた言葉、すなわち、学者が収集する死んだ言葉ではなく、生きた言葉であるからである。
読み狂人はこんな途方もないものが読めて実に幸せだわ。といって書くもののクォリティーはたいしてあがりまへん。ウケルー。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS)
≪増補改訂版米朝落語全集(全八巻)≫
上方落語の第一人者で重要無形文化財保持者(人間国宝)でもある桂米朝師匠(89)が自ら執筆した「米朝落語全集 全七巻」(1980~82年)に、新たに発掘された口演記録など新収録を加えた約160篇の落語速記と自筆解説を収載した完全版。2013年11月から刊行を開始し、14年6月にも発刊する第八巻で完結する。