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豊かな心や礼節を身につけて生きる 鈴木日宣
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雨に打たれる紫陽花(あじさい)はなぜこんなにも美しく見えるのでしょう。鬱陶(うっとう)しい梅雨時ですが、この花の美しさを堪能できることはひとつの楽しみ。季節ごとに咲く花は、その時季が一番似合っているからなのでしょうか。きっと人も自然体でいるならば、季節の花のようにその年齢ごとの美しさがあるのかもしれません。雨の中の紫陽花を見ながら、ふとそんなことを思っています。
世の中には「ただ自分たちが楽しめればいい」と平気で社会に大きな迷惑をかける人がいます。公共物損壊やマナー違反、迷惑行為などを数え上げれば枚挙にいとまがありません。このような愚かな行為に及ぶ人間が、また行為にまで及ばずとも自分中心で物事を考える人間が確実に増えていることに危惧を感じるのは私だけではないでしょう。
「天下は悪に亡びずして愚に亡ぶ」
これは「国柱会」の創始者である田中智学先生のお言葉です。世の中が亡ぶのは「悪」がはびこるからではなく「愚か」が原因になるということです。「愚か」というのは頭がいいとか悪いとかを論じているものではありません。
道理が分からず、目先のことのみにとらわれ、その時だけ、自分さえよければいいと後先を考えない「畜生界」の生命です。そのような生命の強い衆生が多ければ天下は滅んでしまうというのです。
世相を見るにだいぶ薄らいでは参りましたが、いまだ学歴重視の社会構造が定着しているようです。しかし実際問題としていざ社会に出たとき、一番大切になるものは正しい言葉遣いや礼儀を始めとするその人の人間性です。豊かな心や礼儀を身につけてこそ人間であり、礼儀を失すれば動物となんら変わりがありません。しかし現状の教育では「よい人間性」を育てる環境がまだ整っていないように思います。いくら一流企業に入社し、人をけ落としてまで出世して高給取りになったとしても、その言動や生きざまが人の道を外れているならば「愚かな人」と言わざるを得ません。
今生で得た財産や地位や名誉も、死ぬときにはすべて置いていかねばならないのです。日蓮聖人は「死後の世界に行き、その人の作った悪業により悪所に堕(お)ちてしまったとき、いかに高貴な人であろうが将軍であろうが物の数ではない。獄卒に責め立てられるその姿は猿回しの猿と変わらない。
この時は名誉や権力が何になろうか」と仰せになっています。勉強の優劣よりも、死後の世界にもかかわってくる人間性の優劣のほうがはるかに大切なことなのです。師匠は「これから求められる人間は礼儀をわきまえ、日本人としての心を有する人である。勉強さえできればよいという時代ではない」と話してくださったことがあります。「人間らしさ」を磨く時代とでも言えましょう。
江戸時代の儒者である貝原益軒(かいばらえきけん)は「学問をする第一の目的は人としての道を知ること」と言いましたが、まことにその通りだと思います。学校でも家庭でも「人としての道」を子供たちに教える場とし、今以上に「愚か」な人間を増やさないようにすることがいま求められるべき教育なのではないでしょうか。
≪自分の愚かさに気づいている者は愚か者ではない≫
「愚か者」ということについて次のようなお話があります。お釈迦様のお弟子の一人にシュリハンドクという方がいました。
物が覚えられず、せっかく覚えても端から忘れてしまい、ともすると自分の名前さえ忘れてしまうのでみんなから「愚か者」と呼ばれていたのです。シュリハンドクは「なぜ私はこんなにも愚か者なのだろう」と一人なげいていたとき、そこへお釈迦様がおいでになりました。そしてシュリハンドクに「お前は自分が愚か者だと嘆いているが、自分の愚かさに気づいている者は愚か者ではない。自分の愚かさに気づかず、自分は賢いと慢心し、人を蔑(さげす)んでみるような心の持ち主こそまことの愚か者である」と静かにお説きになりました。純粋なシュリハンドクはお釈迦様の教えを実践し、のちに優秀なお弟子の中から選ばれ「記別」(未来に仏になることがあらかじめ記された、卒業免状のようなもの)を授かりました。
人は思い上がり、慢心を抱く時、他人を馬鹿にしたり自身の過失さえ気づかないものです。そういう人間こそ「愚か者」なのだとお釈迦様は断言されています。自分の愚かさに気づき、過失あれば悔い改め、同じ過ちを二度と繰り返さない。そう生きる人が「賢き者」と言えるでしょう。
「愚人にほめられたるは第一の恥なり」と日蓮聖人は仰せです。どうせなら仏様から「賢き者」とほめて頂ける人生を歩んでいきましょう。(尼僧 鈴木日宣/撮影:伴龍二/SANKEI EXPRESS)