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「優しく勝つ」から優勝 萩原智子
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シドニー五輪の水泳女子200メートル背泳ぎ決勝で、3位に入り銅メダルを獲得した中尾美樹さん(左)は、筆者(萩原智子さん)から祝福を受け、涙があふれた=2000年9月22日、オーストラリア・シドニー(川村寧撮影)
先日、1通の手紙が届いた。送り主は以前、私が講演した中学校の生徒からだった。
「ハギトモ先生から教えてもらった『優しく勝つ』を実践できました。勝負の前に人に優しくするなんて大変なことだと思っていました。でも私が大変な時、人を気づかうことで心が落ち着きました。心が落ち着いたので、集中することができて、勝てなかったライバルに勝つことができました。勝ったこともうれしいけど、大変な時に人に優しくできたことがうれしかったです。自信になりました」
涙が出てしまうほどうれしい報告だった。
勝負の世界に、優しさは必要ないという人もいる。もちろんさまざまな考え方があって当然だ。しかし、私はその度に「優勝」という漢字を思い浮かべてしまう。なぜなら「優勝」には、優しいという文字が入っているから。あることがきっかけで、そのことを強く気づかされた。
今から14年前…。2000年のシドニーオリンピック出場をかけた国内選考会でのこと。私はオリンピック出場がかかっている大一番である200メートル背泳ぎの予選レースが行われる当日、何とも言えない不安と調子の悪さで大切なレースから逃げたいと感じていた。「目指してきたオリンピックに出られなかったらどうしよう」。「良い結果が出なかったらどうしよう」。プレッシャーに押しつぶされそうになり、自分で自分の首を絞めた。レースに出場することが嫌で、指導者に本気で棄権したいと言ったほど、マイナス思考の精神状態だった。
レース前に召集所へ集まったときも、私は泣いていた。泣いている私に誰一人声をかけない。「ライバルが1人減った。ラッキー」。なんて思っている人もいたのかもしれない。勝負の前に、人のことを考える余裕などないのが当たり前だ。しかしそんな中、私に声をかけてくれた人がいた。中尾美樹さん。当時の私の背泳ぎのライバルだ。「ハギトモ、大丈夫? 何かあったん? お互いに頑張ろな」。この言葉に私はハッとした。勝負の大一番を前に、ライバルに優しく声をかけ励ます。何とも言えない優しさが不安な私の心を包み、前向きに変えてくれた。200メートル背泳ぎ決勝では中尾さんが優勝、私は2位。共にオリンピックの出場権を獲得することができた。
表彰式で中尾さんの優しさが身に染みた。それと同時に、ずっと気になってきた「優勝」の意味が理解できた。優れている人が勝つという意味で使われることが一般的だが、私の中で「優勝」とは、「優しく勝つ」とも考えることができるようになった。だから中尾さんは、あの200メートル背泳ぎで優勝したのだと。
もちろん勝負の世界。優しさだけでは勝てない。しかし優しさと強さを兼ね備えた人だったからこそ、頂点に立てたのではないだろうか。私は今でもそう思っている。人に優しくできるのは、自分自身に強い信念があるから。だからこそ、人に優しくできるのだと私は信じている。
結果は目に見えて、形として残る。しかし優しさというものは目で見ることはできない。だからこそ、自分の心の中に深く刻まれる。私はスポーツから、真の優しさを教えてもらった。どんな世界でも、頂点を極めるには相当な努力と精神力がいる。そしてそれと同時に、人間として大切な優しさも重要なのだと痛感している。
人はそれぞれの道を歩み、生きている。苦しいことも、悲しいこともある。もちろん、うれしいことも、楽しいことも経験する。それは、生きているからこそ味わえる最高の気持ちなのだ。人間にしかない豊かな感情。私はそんな人との触れ合いが大好きで、大切にしている。人の優しさ、これは本当に素晴らしいと思う。
私はこの34年間で、たくさんの優しさに出合ってきた。励まされる優しさ、助けてもらう優しさ、ただ隣にいる優しさ、言葉の優しさ、厳しさの中にある優しさ、手からあふれる優しさ、人を大切に思う優しさ、支えたい、応援したいと思う優しさ、周りへ感謝する優しさ。本当に数多くの優しさがある。そんな優しさが、人の心を豊かにし、成長させてくれるのだと思う。(日本水連理事、キャスター 萩原智子/SANKEI EXPRESS)