サッカーのワールドカップブラジル大会は、ドイツの優勝で幕を閉じた。オリンピック・パラリンピックと同じ、4年に一度のビッグイベント。この大会にかけてきた選手たちのスーパープレーや一喜一憂する姿はもちろんのこと、スタンドを埋め尽くし狂喜乱舞するファンの声援も、テレビで見ていてもすさまじいものがあった。
なかでも開催国・ブラジルの盛り上がりは、想像以上に素晴らしかった。初の開催国優勝を目指し、選手とファンが一丸になって突き進んでいた。準々決勝では、ネイマール選手が苦悶(くもん)の表情を浮かべながら芝に倒れた。第3腰椎を骨折し、全治4週間のけがを負ってしまった。
そのままピッチを去ることになったエースの不在が響いてか、準決勝のドイツ戦では1-7の歴史的大敗。ネイマール選手の存在が、ブラジルにとってとても大きいものであったことを改めて実感した。
そんなネイマール選手をいろいろな報道で目にすることで、私自身のことをふと思い出した。ネイマール選手はまだ22歳と若いが、故郷のブラジルで「プロジェクト・ネイマール・ジュニア財団」を設立。貧困に苦しむ子供たちに、スポーツと教育の支援をしているという。ネイマール選手の出身地であるブラジル・サンパウロ州のモジ・ダス・クルーゼスでは、子供たちは裸足でサッカーボールを蹴っているという。芝のグラウンドもなく、環境が整っているかと聞かれれば、「NO」である。それでもサッカーボール一つあれば、彼らにとっては幸せなのだという。世界には靴を履くことすらできないまま、スポーツをしている子供がいるのが現状だ。
私は高校時代、あることがきっかけで、世界では、日本の「当たり前」が通用しないということを実感した。海外などの試合に日本代表として出場する場合、新しい水着やユニホーム、靴やかばんなどを水泳連盟から支給してもらう。それはもちろん新品で、私の体にピッタリ合ったものだ。当時は支給してもらうことに対し、ただの一つの疑問も抱くことはなかった。
そんなとき、遠征先で出会ったウクライナの選手たちに、衝撃を受けた。国を代表して試合に出場しているにも関わらず、ボロボロのジャージーや水着を着ていたのだ。母国の経済情勢が悪いため、スポーツに対する支援がない状況だということを初めて知った。
それでもウクライナの選手たちは「夢や目標があれば、どんな状況、環境でも頑張れるんだ」と明るく話してくれた。この言葉を聞いて、さらに衝撃を受けた。
私は日本に生まれ、素晴らしい環境で水泳を続けてきた。水があるのは「当たり前」だったし、練習場に行けば、泳ぐのに適した温度に保たれたきれいな水がプールに張ってあった。現役を引退してからも、充実した環境でスポーツ活動に取り組めている。しかし、国によっては、日本の「当たり前」が通用しない場所が多くある。恵まれた環境のなかでスポーツができる国の方が、少ないのが現状なのだ。今回のW杯を通じ、豊かな生活や恵まれたスポーツ環境が、当たり前ではないことを再認識させられた。
素晴らしい環境でスポーツに携われていることは、本当に幸せなことである。感謝の気持ちを常に抱くと共に、より一層頑張らなければならない。
高校生の時に気がついた「当たり前が通用しない」ということを、W杯をきっかけに再度、胸に刻んだ。(日本水連理事、キャスター 萩原智子/SANKEI EXPRESS)