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【にほんのものづくり物語】屋久島 タンカン
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屋久島のタンカン=鹿児島県熊毛郡屋久島町の吉田集落、田中農園(提供写真) ≪伝統に培われた技を 新しい発想に生かすと「ものづくり」の可能性が広がる≫
古くは平家の落人伝説の里として、今は朝の連続ドラマ「まんてん」のロケ地、まんてんの里として観光スポットにもなっている屋久島北西部の吉田集落。豊かな自然に囲まれ、漁業とともに、ポンカン、タンカンの産地としても知られるこの地で、地域の人々が心身ともに豊かに暮らせることを願い、果実づくりを天職と選んだ人がいます。今回は鹿児島県の屋久島でタンカン作りに取り組む、田中農園の田中秀志(ひでし)さんを訪ねました。
豊かで美しい自然が残されており、島の面積の約21%がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されている屋久島。亜熱帯に位置する周囲132キロの島は、標高1000メートル以上の山を45以上も持ち「洋上アルプス」ともいわれます。また、一年を通して降雨量が多く、長い年月をかけて原生林を流れ磨かれた水は、日本でも有数の名水といわれます。吉田集落がある北西部は、急峻(きゅうしゅん)で平坦(へいたん)な土地が少なく、冬になると海が荒れ、雪が降ることもあるという、豊かさと厳しさの二面性の自然環境にあります。
この地に生まれた田中さんは、日本の高度成長期に青春時代を迎え、当然のように島を出て大阪で暮らしていました。ある日、店頭で、白い粉が皮一杯に付着したみかんを目にします。大量生産、大量消費を良しとする時代。農薬にまみれた皮をむいた手で、口に果実を運ぶことに何の抵抗も持たない人々。ものがあふれ著しく変化していく世の中、本当の豊かさとはなんだろうと考えた時に、故郷のみかん山を思い出したそうです。昭和24~25年頃に父親が始めた、みかん山に行くことが子供の頃の日課でした。
「自分はみかんを作るために生まれてきたのではないか」そんな思いに導かれ、家族とともに屋久島へ帰ったのは、昭和49年のことでした。
吉田集落は105世帯余り、人口300人ほど小さな村でしたが、当時はポンカン景気で潤っていました。5月に花が咲き12月が収穫時期のポンカンは、香りと甘みのある南国の高級果実として、お歳暮商品として人気を集めていました。
そんな中で田中さんはタンカンの有機栽培を始めます。ポンカンとネーブルオレンジの自然交雑でできたタンカンは、柑橘(かんきつ)系の果物の中では一番糖度が高く、また、その濃厚な果汁にはみかんの約2倍のビタミンCが含まれています。おいしくて、何より安心して食べられるものを作りたいという強い思いから、新しい苗が市場に出るのを待って、山を切り開いた三反の土地にタンカンを植栽しました。周りの農家は皆、収益性の高いポンカンの生産をしており、それ以外の新しい果実、ましてや有機栽培という手間のかかることをする必然性は、なかなか理解されなかったといいます。せっかく植えた木が台風の影響で全滅するなどの危機を乗り越え、昭和53年、小粒ながら甘みの強いタンカンの収穫に成功します。やがて、世の中の金融バブルがはじけ、景気の低迷とともにポンカンの出荷数も下降。社会状況の変化とともに、食の安全や環境問題に対する関心が高まってきました。自分たちの集落で皆が豊かに暮らしていける未来を願い、安心なものを地道につくり続けた田中さんの時代がやってきたのです。
屋久島の自然の中で丁寧に手をかけて作られるタンカン。見た目が多少悪くても、皮まで使い切れる安全さと、香り豊かなおいしさには定評があります。しかも出荷できないグレードのものは肥料化し、完全に循環をさせるなど徹底したエコ対応。その真摯(しんし)な取り組みを知る鹿児島県の有機生産組合からの紹介で、化粧品原料として活用する道も開けました。爽やかなタンカンの蒸留水がミストやジェル、ハンドクリームに形を変え、屋久島の香りを届けてくれます。
現在、吉田集落も高齢化をむかえ住民数も減少しつつあります。しかし、「生まれた土地で、皆が豊かに暮らすために仕事を全うすることこそ自分の生きざま」という田中さんの思いは、これからも受け継がれ、新しいものづくりにつながって行くことでしょう。(SANKEI EXPRESS)
問い合わせ先:田中農園
〒891-4202 鹿児島県熊毛郡屋久島町吉田71 (TEL・FAX)0997・44・2780