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まだまだやれるぞ!松坂世代 大屋博行

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まだまだやれるぞ!松坂世代 大屋博行

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ソフトバンクに入団が決まり、ユニホーム姿を披露する松坂大輔投手。右は王貞治球団会長=2014年12月5日、福岡県福岡市内のホテル(共同)  【メジャースカウトの春夏秋冬】

 米大リーグ、メッツをフリーエージェント(FA)になった松坂大輔投手が日本球界に復帰し、ソフトバンクに入団することが決まった。松坂投手をと同じ1980年度に生まれた選手は「松坂世代」と呼ばれ、多くの選手が活躍してきた。彼らの多くが今年、35歳を迎える。

 98年の「夏の甲子園」はまさに熱闘甲子園だった。ダイヤモンドバックスでスカウト活動を始めた年でもあり、強く印象に残っている。その後も毎年、甲子園を見続けてきたが、最もハイレベルな大会といえる。私たちメジャーのスカウトは、世界中の選手の能力をランク付けするが、この大会は点数が高い選手が一番多かった。

 主役はなんと言っても横浜高を春夏連覇に導いた松坂投手だった。PL学園高との延長十七回の激闘は今も目に焼き付いている。決勝では京都成章高相手にノーヒットノーランを演じた。

 メジャーでは先発ローテーションを死守できなかった右腕。日本球界に復帰し、過去の輝きを取り戻せるだろうか。アメリカでは、はじき返された自慢の直球も、日本でならまだまだ通用するだろう。右肘にメスを入れ、力を抜くなど投球テクニックを考える時期にきている。年俸的にも15勝前後の活躍が求められる。

 当時のわれわれのスカウティングでは、松坂投手はアジア地域で4番手に過ぎなかった。1番手は後にヤンキース入りする台湾の王建民投手。そして、松坂投手より日本人で上の3番手につけていたのが沖縄水産高の新垣渚投手(現ヤクルト)だった。

 新垣投手は98年の夏の甲子園で当時大会最速の151キロを計測。荒々しい投球フォームは、すでに完成されて伸びしろが少ないとみられていた松坂投手よりも、アメリカ人好みだった。九州共立大からダイエー(当時)に自由獲得枠で入団し、3年連続で2桁勝利を挙げた。だが、その後はけがもあって伸び悩んだ。制球に苦しみ、武器だった荒々しい投球フォームが小さく矯正されてしまった。日本人1番手の評価を下していただけに、今後の奮起に期待したい。

 希少性高い左腕

 大会後に大きく伸びた選手もいる。その一人が鹿児島実高から三菱重工長崎を経てダイエー、巨人で活躍している杉内俊哉投手だ。

 夏の大会では八戸工大一高相手にノーヒットノーランを飾るも、評価は低めだった。カーブに見るべきものがあったが、直球は130キロ出るか出ないか。夏の大会後にAAAアジア選手権の日本代表に選出されたものの、登板はインドネシアやモンゴルといった野球の途上国との対戦のみ。それほど期待されていたわけではなかったが、今や沢村賞に輝く左腕になった。

 もう1人挙げるなら、現カブスの和田毅(つよし)投手だろう。島根・浜田高時代は甲子園にこそ出場したが、線が細く、誰が見ても迫力に欠けていた。制球は当時からよかったが、空振りが取れるボールがなかった。杉内投手とは異なり、AAA代表にも選ばれなかった。早大進学後に成長し、日本を代表する左腕の一人として海を渡った。まさかメジャーリーガーに育つとは、当時は考えもしなかった。

 どちらの投手にも共通するのは、左腕という利点だ。もちろん2人とも変化球の切れが増し、直球のスピードも速くなったが、やはり球界でも希少で打者も対戦機会が多くない左腕だったことが大きい。左腕に限っていえば、あまり体つきで過小評価をしてはいけないということだ。

 野手にも逸材

 野手に目を転じると、一番注目していたのは、豊田大谷高の古木克明内野手だった。横浜(当時)に入団して左の長距離砲として期待を一身に集めたが、けがに泣いたこともあり、プロでは大成できなかった。打撃の荒さを克服できなかったのは残念でならない。

 当時は投手だった東福岡高の村田修一選手(現巨人)も、打撃センスが目についた。投手としては突出したものはなかったが、バットスイングが安定しており、ボールへの反応がよかったのが印象的だった。日大をへて日本を代表する右のパワーヒッターになった。

 そのほかにも久保康友投手(横浜DeNA)や藤川球児投手(レンジャーズ)、木佐貫洋投手(日本ハム)ら名前を挙げていけばきりがないほど逸材ぞろい。「ハンカチ世代」や「大谷世代」が台頭しているが、まだまだ負けないでほしい。(アトランタ・ブレーブスの国際スカウト駐日担当 大屋博行/SANKEI EXPRESS

 ■おおや・ひろゆき 1965年10月生まれの47歳。大阪府出身。高校中退後に渡米し、アリゾナ州スコッツデール市立コロナド高校で投手としてプレー。コロナド高を卒業後に帰国し、プロ野球阪神で練習生、歯科技工士などを経て98年に米大リーグ、アリゾナ・ダイヤモンドバックスの国際スカウト駐日担当に就任。2000年からアトランタ・ブレーブスの国際スカウト駐日担当として日本国内の選手発掘に励む。

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