武力革命路線時代の行動
現在、共産党は、1950年代前半の「山村工作隊」「中核自衛隊」などを通じた武力革命路線を、いわゆる「所感派」と呼ばれる徳田救一書記長(当時)らの責任に帰しているが、説得力に欠ける。1956年の第6回全国協議会で、共産党は「所感派」と「国際派」の分裂を解消したが、武力革命路線に従事した「所感派」の人々も、共産党で要職を占めた。そのことに対する説得力のある釈明を共産党はしていない。
また、日本共産党朝鮮ビューローのメンバー(後に朝鮮労働党に移籍する)たちが、武力革命路線時代にとった行動について、共産党は口を拭っている。また徳田救一氏時代の共産党は、沖縄独立論を主張していた。沖縄独立論を信じ、共産党に加わって人生が滅茶苦茶になった沖縄出身者もたくさんいる。筆者自身についても、2002年の「鈴木宗男疑惑」に際して、「佐藤優主任分析官の保管していた書類」なる怪文書を共産党委員長が用いて、記者会見で鈴木氏を非難する会見を行った。この文書は、私が保管していた文書とは異なる改竄(かいざん)が加わった謀略文書だった。この文書が、外務省に存在しないことは、当時の外務大臣も認めている。このあたりの都合が悪い真実について口を拭っている共産党は信用できない。(作家、元外務省主任分析官 佐藤優(まさる)/SANKEI EXPRESS)