話の肖像画

    渡辺元智(7)絶やさない笹尾先生の教え

    母校のコーチとして指導していたころ。前列左から2人目が高橋輝彦監督、後列右端が本人
    母校のコーチとして指導していたころ。前列左から2人目が高橋輝彦監督、後列右端が本人

    (6)にもどる

    《昭和40年、20歳で母校野球部のコーチになった。50年以上にもおよぶ、指導者人生がスタートした》

    母校では事務職員として採用となり、野球部の指導にあたることになりました。学校が招聘(しょうへい)した高橋輝彦新監督のもと、コーチとして選手を指導する日々が始まったのです。高橋監督は東京セネタースの内野手として活躍した元プロ野球選手で、専修大学や社会人野球・馬淵建設などで監督を務めた方です。専大時代には広島の監督をやった古葉竹識さんや小池兼司さん(南海)らを育て、黄金期を築きました。学校は「渡辺がまだ若いから」と、実績のある高橋監督を招き、学ばせようとしたのでしょう。

    高橋監督は時代を先取りする野球をやっていました。例えば投手の起用です。選手層の厚い大学野球では複数の投手を起用しますが、一発勝負の高校野球では能力の高いエースに託して勝ち進むのが当時の定石。ところが高橋監督は高校でも複数の投手を投入した。この起用法は私が初めて夏の全国制覇を果たした昭和55年、愛甲猛と川戸浩の2投手で取り入れさせてもらいました。

    私の現役時代は高校の笹尾晃平監督、神奈川大学の鈴木三好監督と厳しい指導者ばかり。その経験から、穏やかな紳士で選手の自主性を尊重する高橋さんの指導は斬新でした。しかしまだ20代だった私は高橋監督の境地にはほど遠く、選手と一線を引くためにサングラスをかけ、コーチとして高橋監督にない部分を補助するよう、厳しい指導を重ねていました。

    《ある日、グラウンドの裏山に呼び出された》

    年齢が近いこともあって、最初の年に指導した部員たちには私の現役時代を知っている上級生もいました。黙々と練習していたそのころの私の姿を重ねていたのでしょう。おとなしい先輩と思っていたら、コーチになったとたんにガンガンやり始めたので、「生意気だ」と映ったようです。

    高橋監督や部長がいないある日、3年生の部員たちに「話がある」と囲まれ、グラウンドの裏山に連れて行かれました。ここで引いてはダメだと思い、とにかく毅然(きぜん)と対峙(たいじ)しました。そしてその後は、より厳しい指導を続けたのです。「(前の監督である)笹尾先生のやり方を継承して厳しく指導する」とはっきり示したことで、それ以降は反旗を翻す部員は出てきませんでした。

    《模索と勝負の日々が始まった》

    笹尾先生は私が卒業した翌年夏に神奈川大会を制し、甲子園でベスト4まで進出しました。学校の期待に応えて勇退され、後継者として私を強く推してくれたと聞きました。母校を再び甲子園に導くため、走り込みと基礎練習の反復、そして千本ノックと、部員には練習に次ぐ練習を課しました。甲子園という目標を持たせ、その情熱を練習に向けさせる。最初はキツかった練習が、体力と技術が身についていくのを実感できるようになると、それほどキツくなくなってくる。笹尾先生に学んだやり方を、今度は自分が部員に教えなければならない。模索の日々が始まりました。

    高校野球にとって、指導者の存在は非常に大きい。私が中学時代に全盛期だった法政二高は田丸仁監督が大学の監督となり、次いで東海大相模が九州から原貢監督を招いて台頭しました。原監督が大学に行った後は群雄割拠の状態です。高校野球は監督が代わると勢力図が塗り替わります。目標に掲げて畏怖していた原監督や、それに続く監督たちとの勝負の日々も始まりました。(聞き手 大野正利)

    (8)にすすむ


    Recommend

    Biz Plus