信仰心ではない? 江戸時代の男たちが熱心に寺社参詣した“意外な理由”

    数万人を組織化…講が成田山の経営を支えた

    もちろん、江戸っ子数万人が成田講のメンバーであったとしても、その信仰の度合いはおのずから異なる。だが成田山としては数万人を講という形で組織化できたことは、経営基盤にプラスになったことは間違いない。

    講を通じて参詣を促すことで参詣者が増加すれば、いきおい浄財(寄付金)も増えて経営強化に直結する。

    成田山に限らず、どこの寺社も講を活用していた。

    講は町や村という共同体単位で結成されるのが普通だが、江戸のような都市では商人や職人仲間単位で組織された講もあった。商人仲間で組織された講としては、魚屋や酒屋のほか、両替屋・札差(ふださし)(俸禄米の仲介業者)・米屋・材木屋などの講が挙げられる。

    職人仲間では町火消で組織された講がある。成田山の山内には江戸町火消が奉納した石碑が今も数多く残されている。成田山を参詣した町火消の講中が信仰の証として奉納したものだ。そうした由緒を踏まえ、今も「江戸消防記念会」が成田山に毎年赴き、木遣(きやり)歌を奉納している。

    片道1泊2日の成田詣の中身

    講単位で参詣する場合は、次のようなシステムで参詣することになっていた。講員がおのおの金銭を出し合い、積み立てておくのである。積もり積もって奉納金となるわけだが、それだけが使途ではない。参詣に要する旅費にも充てられた。

    ただし、メンバー全員がうち揃って参詣したのではない。順番で参詣する仕組みになっており、講を代表した「代参講」のスタイルが取られた。数人から数十人ずつ連れ立って参詣したが、懐に入れていたのは旅費や宿泊費だけではなく、多額の奉納金も持参しての団体旅行だった。

    成田山を事例に、江戸から成田までの行程をみていこう。ちなみに、成田山への参詣は成田詣でと呼ばれた。

    成田詣では片道一泊二日の行程だった。陸路の場合は江戸から東に向かい、隅田川に架かる千住大橋を渡って新宿(にいじゅく)に入り、小岩・市川関所を経て江戸川の先へ進んだ。八幡宿を経由した後、その日は船橋宿で宿泊した。翌日、船橋を出発し、佐倉城下を通過して成田に到着するのが一般的なコースである。

    このルートは、もともと佐倉街道と呼ばれていた。ところが、成田詣でのため使われることが増えたため、いつしか成田街道と呼ばれるようになる。

    まるで旅行パック…宿泊先もセットでついてくる

    水路も使って参詣する場合は次の二つのコースがあった。

    一つは、深川の高橋(たかばし)から小名木(おなぎ)川を経由して下総国の行徳河岸まで船で進み、上陸した後は市川を経由して船橋宿で宿泊するコースである。翌日は陸路の場合と同じく大和田宿、佐倉、酒々井(しすい)を経由し、成田へと向かった。

    もう一つは行徳河岸で上陸せずに、そのまま江戸川を遡って利根川との分岐点である関宿(せきやど)に向かうコースである。その後、今度は利根川を下って安食(あじき)河岸・木下(きおろし)河岸から上陸し、成田に向かった。主に船旅となって歩く距離が少なかったため、結構利用者が多かったようだ。参詣裏道とも呼ばれたコースだった。

    陸路にせよ、水路・陸路併用にせよ、成田に到着すると門前の旅籠(はたご)屋に宿泊したが、講で成田詣でをする場合、泊まる宿屋は決まっていた。江戸の成田講に限らず、関東各地に点在する成田講は成田山門前の旅籠屋とそれぞれ契約し、参詣時の定宿としたのである。


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