「東京から日本を変える」。1日、死去した石原慎太郎氏の都知事としての約13年半は、初当選時に掲げたスローガン通りのものだった。強力なリーダーシップとトップダウンで施策を推し進めた。一方で、その強さの裏側に、繊細な優しさや純粋さを感じ取った関係者も少なくなかった。
石原氏のリーダーシップが端的に表れたのは平成24年4月、訪米中に突如表明した尖閣諸島(沖縄県石垣市)の購入構想だった。
「筋違いですよ。でも国はやらない。だから東京都が尖閣を守ります」
こう語った石原氏。地権者との交渉も進めたが、結果として、民主党(当時)の野田佳彦政権で同年9月に国有化された。
ある幹部職員は当時、「尖閣諸島国有化の流れになったとき、精気を失ったような表情だった。ずいぶん気を落とされていた」と振り返る。都庁内では「知事は都政にやる気を失った」という憶測が流れ、同年10月の都知事辞職のきっかけの一つになったとみる向きもあった。
会見などで見せるパフォーマンスも一流だった。ペットボトルに入った煤(すす)を振り上げて、「都内で1日にこのペットボトルが約12万本出ている」と熱弁をふるい、ディーゼル規制を訴えて、共感を呼んだ。
「中国をシナと呼んで何が悪い。日本で中国といえば、広島県や岡山県のことだ」というのはあいさつなどでの常套(じょうとう)句に。妊娠の兆候があった上野動物園のジャイアントパンダについて、尖閣を念頭に「子供が生まれたらセンセン、カクカクと名付ければいい」と皮肉ったこともあった。
周囲の意表を突き、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いの一方で、純粋な一面をみせることもあった。
平成23年の東日本大震災と、それに伴う東京電力福島第1原発事故で、放水作業のために現地に赴いた東京消防庁ハイパーレスキュー隊員に対して、人目をはばからず涙を流し、「ああ、もう言葉にできません。本当にありがとうございました」と、感謝の言葉を吐露した。当時、隊員らに出動を命じた消防総監はこう証言した。
「知事は決して『やれ』とは命令しなかった。『本当に大丈夫か、できるならやってくれ。頼む』と。隊員への気遣いを感じた」
尖閣諸島購入構想でも同じだった。「『国を守る』という純粋な思いに応えたかった。国に油揚げをさらわれるようなことは許せない思いがあった」と、ある職員は当時を語る。
2016年五輪招致で東京が敗れたコペンハーゲンでの国際オリンピック委員会(IOC)総会からの帰路。元首相の森喜朗氏はこう明かした。
「帰りの飛行機で石原さんが泣いているのを隣で見ていた。あの強がりがよっぽど悔しかったんだなあ。あんな悔し涙は初めて見た」
都知事として、毎週金曜日午後3時から定例会見に臨んだ。歴史認識についてや、石原氏の都政を批判する記者の質問に逆質問を投げかけたり、声を荒らげたりする場面も多かった。それでも、会見を終えた石原氏が、「あれが記者なんだよな」とつぶやくのをある職員は耳にした。
都知事4期目の出馬表明は平成23年3月11日、震災の発生直前のことだった。震災対応では、いち早くがれきの受け入れを表明、広域処理の先鞭(せんべん)をつけた。都民からの反対意見が都庁に寄せられたことに、「黙れといえばいい」と思いの丈が口をついて出た。受け入れに二の足を踏む自治体の首長については「総理大臣が強い号令をかけて、首長の尻をけっ飛ばせばいい」と言い放った。
当時、首都圏の自治体で広域処理の実務にあたっていた職員はこうつぶやいた。
「石原さんだから、できる。石原さんにしかできない」
この言葉が石原都政を端的に言い表している。































