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国の転換点でも“内部反発”を懸念…トップの苦悩と外様大名・黒田の慧眼 ペリー来航予告と幕閣・阿部正弘(4)

嘉永6年(1853年)6月3日のペリー来航まであと半年に迫った、12月。長崎のオランダ商館からアメリカ艦隊来航が予告されていたのは3月から4月だったから、あと三カ月といった方がよいだろう。当時の要路にはまさに「まもなくかも」の実感があっただろう。

ともかく、当時考えうるすべてのペリー来航予告情報を入手していた老中首座、阿部正弘はついに「あること」を行った。その「あること」とは…。

それは、通商要求をするアメリカ艦隊に対してどのような対応策をとるべきか、外様大名黒田斉溥(福岡藩主)に意見諮問を行ったのである。長崎防衛を担当しているとはいえ、外様大名である…。

浦賀の海岸(Getty Images)※画像はイメージです
浦賀の海岸(Getty Images)※画像はイメージです

阿部の苦悩

阿部の黒田への諮問依頼は、口頭であったと思われる。なぜなら、その文言を明確に書いた阿部の諮問依頼文書は残っていない。しかし、黒田の意見書があった事実は、島津斉彬(薩摩藩主)の書状から知られていた。しかし、その本文は十分には知られていなかったのである。昭和の最末年63年(1988年)に学界に初めて報告がなされた。

それは、黒田の意見書そのものの写本が、徳川林政史研究所の尾張藩主徳川慶勝手元文庫にあったのである。黒田の知友慶勝が大切に保存し、自ら蔵書目録を作成して、その目録に「美濃建白写」「小冊」「一」、すなわち、松平(黒田)美濃守斉溥の意見書、小さい写本、1冊と直書していたのである。慶勝にとってそれは、大切にすべき写本だった。

慶勝は、自分の蔵書を自分で目録を作り、自分で管理する、本のコレクターだ。ちなみに慶勝のコレクションは、本のみならず、撮影した写真や写真機材、浮世絵、昆虫標本、東海道の本陣の起こし絵、京都言葉などにも及んでいて、興味をもったことがらは何でも収集して自分で整理する殿様であった。何でも「そうせい」と他人任せにする殿様とは全く一線を画している。慶勝に関しては、いずれまた登場してもらうので、「尾張のコレクター殿様」として覚えておいていただけるとありがたい。

ともかく、慶勝コレクションの中に黒田の意見書が保存されていて、初めて、老中阿部が意見諮問を行ったことが確実になった。また、黒田の意見書の内容がはっきりわかったのである。なお、現在でもこの写本が唯一の黒田の意見書で、実に貴重なものだ。

その黒田の意見書によれば、黒田は阿部から、ペリー来航予告情報第一弾であるオランダ別段風説書(べつだんふうせつがき)を「内密」に回達された。実はこれは鍋島斉正(佐賀藩主)や島津斉彬(薩摩藩主)にも同時に回達されたものだ。それは書いていない。しめしあわせたと取られてはならないのだ。なぜならそれは幕府が最も忌み嫌う徒党になるから。

しかし「北アメリカ」の使節が派遣されてくること、日本の港2、3を米中航路上の石炭貯蔵所として用いたいとのこと、一説には城攻めの人員や武器を積載して江戸に来るともいわれている、とオランダ別段風説書の内容をきちんと要約している。幕府がつかんだ重要機密情報を内密にでも外様大名に回達するのは、それ自体がめずらしいし、それを使って意見書を書くのもまれだ。黒田はさらに阿部が添付した文書も引用している。

「とりとめのないことだが、心得として回達した。ただし、世上に流布したら、人々が騒ぎ立てるのでよくよく含んでもらいたい。海岸防備は油断ないように。ただし、大仰な準備はしないように」

黒田が別段風説書の内容をわざわざ引用したのは、こうしたことはよく心得ておりますが、やむにやまれずに意見を出しました、というスタンスを強調するためだ。なぜなら、およそ幕府老中が国内問題はおろか外交を外様大名に意見諮問するなどかつてなかった。そんなことをすれば、従来、政治を担ってきた譜代大名や幕臣が大いに騒ぎ立てることは火を見るよりも明らかだったのだ。

だから阿部は「くれぐれも内密に頼む」「世に知られたら困る」「油断はしないでもらいたい」「しかし、何かあるのだろうかと気取られては困る」とする。まさに阿部の苦悩がよくわかる文言だ。ここまで考えると阿部が懸念した騒ぐ「人々」とは、どうやら一般民衆ではなく、勘定所の役人等幕臣や諸藩士、蘭学者などのようである。


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