当時は、電車と言えば、市街地を走る路面電車が主流であり、遠距離の都市や港湾などを結ぶ鉄道は蒸気機関車がその役割を担っていた。高速電車で遠距離を結ぶ構想は周囲に「お道楽」と揶揄された。
だが、「必ず電力の時代が来る」と信じて疑わない松永はそんな批判は気にもとめず、ひたすら計画に巨費を投じ続けた。
大正13年、福岡-久留米間(39キロ)が開業した。だが、久留米以南への延伸には鉄道省の敷設許可がなかなか下りず、用地買収も思うように進まなかった。1929(昭和4)年の米ニューヨーク証券取引所の株価暴落に端を発する世界恐慌の影響は日本にも及び、資金調達も滞った。
延伸が危ぶまれる中、松永は昭和8年、部下の中でも「戦闘力ナンバーワン」と信頼する進藤甲兵を社長として送り込んだ。進藤は東邦電力の東京進出の陣頭指揮を執り、国内最大の電力会社、東京電燈を相手に、価格破壊による需要家争奪戦を展開した人物だった。
その進藤でさえも用地買収には苦労したようだが、松永の援護射撃もあり、ジワジワと延伸を重ね、昭和14年、ようやく福岡-大牟田間(74キロ)が開業した。これが現在の西鉄天神大牟田線の原型である。