小林は九州鉄道より一足早い大正9年、大阪-神戸を結ぶ都市間高速電車「阪急神戸線」を開通させていた。沿線で宅地開発を進めるとともに、ターミナル駅に百貨店や娯楽施設などを作り、相乗効果で沿線を発展させる私鉄のビジネスモデルを築いた人物である。
松永と小林は慶應義塾の同窓でもあるが、その絆を強固にさせたのが、明治43年の収賄事件だった。
小林が、松永に紹介してもらった大阪市助役と市議に賄賂を送り、大阪市内の路線延長の認可を求めたところ、警察に2人とも逮捕されてしまったのだ。当時は贈賄側は罪に問われなかったが、「助役らを売るような真似はできない」と考えた2人は、当の助役らが容疑を認めているにもかかわらず、一切口を割らず、数週間も拘束され、同じ「臭い飯」を食べた。
鉄道事業の手法を小林から学んだ松永は、九州鉄道の発着駅を福岡・天神に建設した。当時の天神は城下町の外れの寂しい住宅街にすぎなかったが、逆にそれだけ開発の余地が大きいと踏んだようだ。
次にターミナルデパートを誘致するべく、百貨店開業を計画していた呉服商の中牟田喜兵衛を小林に引き合わせた。中牟田は、当時の商業の中心地だった博多・呉服町界隈への出店を検討していたが、松永らの説得を受け、天神への出店を決意。阪急からノウハウを学んだ上で昭和11年10月、百貨店岩田屋を開業した。