最初に手がけたのは、西鉄宮地岳線(現貝塚線)花見駅前の宅地造成「花見団地」(29区画)。41年4月1日に売り出すと即日完売した。不安を抱えながらこの日を迎えた楠根や担当社員は「快挙だ!」と祝杯をあげた。
44年3月には西鉄史上最大の南ヶ丘団地(大野城市)が完成した。45万平方メートルに1118区画を造成したが、こちらも購入希望者が殺到し、抽選による販売となった。
当時、住宅事業を支えたのは、路面電車やバスの元車掌たちだった。ワンマン化や路線廃止で余剰人員となり、配置転換を余儀なくされた面々だ。「俺は何のために西鉄に入ったのか」と忸怩(じくじ)たる思いがあったに違いない。
それでも彼らは着慣れた制服をスーツに着替え、用地買収や営業活動に靴底をすり減らした。地主の農家に日参し、時にはコップ酒を持参、畑仕事の終わりに一緒に酒を酌み交わした。集落の慰安旅行にお手伝い役で同行する者もいた。
そんな素人集団の熱意に地主たちもほだされたのだろう。「西鉄さんがやるんだったら」と宅地開発は円滑に進み、開発部発足から5年目の44年度には14億2千万円を稼ぎ出した。開発部も不動産事業局に格上げされた。
沿線人口の増加を受け、天神大牟田線と貝塚線の乗客数は、40年に9903万人だったのが、45年に1億387万人、50年には1億2110人となった。
それでも、不動産事業局の社内の地位はなお低く、本業の運輸部門の赤字を穴埋めする「副業」と見なされた。50年代に入ると分譲マンションも手がけたが、51~56年に4棟(計148戸)建てただけで中断してしまった。鉄道の高架化や商業施設の建設を重視したからだ。住宅事業が主要部門にのし上がるのは平成3年以降の話である。
× × ×
「既存の考え方にとらわれるな。これからはマンションの時代だ。どんどん売って住宅事業の売上高を倍に増やしちゃる!」