長谷川が示したのは排気量1000ccの新型車、カローラの企画書だ。2年前からひそかに温め、トヨタ自工の役員会に提示したが「まだ早すぎる」と難色を示されたものだ。
トヨタ自工とトヨタ自販は当時、別会社で「企画書段階で自販に情報をリークするのはルール違反」(長谷川)だった。横紙破りを承知で長谷川がカローラの開発に取り組んだのは、自ら手掛けた初代「パブリカ」(36年発売)からの脱却が背景にある。
戦時中、立川飛行機の主任設計技師だった長谷川は終戦後、トヨタ自工に入社。初代「クラウン」(30年発売)の開発に携わった後、新車開発を取り仕切る主査として手掛けたのがパブリカだった。
政府の「国民車構想」を受けてパブリカは開発された。燃費など性能面の評価は高かったが、価格を抑えるため、室内の鉄板がむき出しの簡素な車だ。販売は苦戦した。
価格や維持費が手ごろで、かつ品質も高い。長谷川はカローラで「あらゆる面で80点以上の合格点」を目指した。
「月産1万台は保証します」という長谷川に、神谷はトレードマークの太い眉を動かし、こう答えた。
「もう一度会おう」
トヨタ自工で新型車開発が認められたのは、それからまもなくだった。