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長谷川は「80点以上」のクルマを目指しさまざまな仕掛けを考えた。当時、国産車で一般的だった、ハンドルの部分に取り付けられたレバーで変速する「コラムシフト」をやめ、欧州車などで使われる運転席横の床にレバーを配置した「フロアシフト」を採用した。
また、当時は世界の小型車ではフォードなど一部しか採用していなかった軽量・省スペースなサスペンションも導入した。開発陣は実用化に苦労した。トヨタ自工副社長で42年に社長になる豊田英二(故人)が「エンジンと同じくらい重要な部品だ。外注はまかりならん」と自社開発にこだわったためだ。
戦後、後発だった日本の自動車メーカーは欧米メーカーに提供された設計図をもとに自動車を生産するケースもあった。長谷川の下で、カローラの開発に当たった佐々木紫郎(89)=現トヨタ自動車顧問=は、「英二さんは『図面に失敗の歴史は書いていない。今のレベルに追いついてもそこから先はない』と言っていた」と振り返る。
さらに英二は40年、カローラの生産体制を整えるため、約300億円を投じ高岡工場の建設を決断した。1社の月産台数が4万台程度の時代に、1工場で2万台を生産する計画は、失敗すれば過剰設備としてのしかかる大バクチだった。
英二は後に「私はカローラでモータリゼーションを起こそうと思い、実際に起こしたと思っている」と語っている。