名声はたちまち幕府に届いて、奥医師ならびに西洋医学所頭取に任命された。やがて将軍家茂の侍医ともなって法眼の位を与えられるのだが、こういうことは性分にあわなかったようだ。洪庵には「人の為に生活して己のために生活せざるを医業の本体とす」という“医戒”があったのだ。ぜひとも大阪人に、この戒めが染みこんでほしい。
いまもって洪庵は「近代医学の父」である。天然痘の治療に尽くし、日本初の病理学書の『病学通論』を著したのだから当然だが、一方では漢方も採り入れるような柔軟性ももっていた。その集中力と柔軟性が適塾生に向けられた教育方針にあらわれた。
「適々斎塾」を略して適塾という。天保9年に瓦町に開設したのち、あまりに手狭になったので過書町に140坪の商家を得て移転した。弘化3年に大村益次郎が入塾したのを筆頭に、その後の時代の礎をつくった門下生たちが続々と育っていった。弘化元年から文久2年までの約20年間の姓名録が残っているのだが、その数636名に及んでいる。
塾生のなかでは橋本左内と福沢諭吉がとくに有名だが、日本赤十字初代総裁となった佐野常民、駐清公使を務めた大鳥圭介、五稜郭の設計をした武田斐三郎、日本初の医学博士号を受けた池田謙斎、手塚治虫の曾祖父にあたる手塚良庵など、傑材が多い。しかもかれらは決して目立とうとした者ではなかった。そこが洪庵の鞭撻(べんたつ)がゆきとどいていたところだ。