1940(昭和15)年9月27日、東京・麹町の外相官邸で開かれた「日独伊三国同盟」締結祝賀会に臨んだ東條英機陸相(当時、軍靴姿の中央)。同盟は同盟として、一方で東條はユダヤ人の痛みに情けをかけていた。乾杯の音頭を取っているのは松岡洋右外相【拡大】
35年に独施政下のユダヤ人は公民権を奪われ難民となり外国に逃れた。一説に数千人のユダヤ人が38年、シベリア鉄道で滿洲(まんしゅう)國近くのソ連にたどり着く。ソ連に入国拒否された難民は滿洲國入りを切望したが、滿洲國も拒む。滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍(かんとうぐん)の樋口季一郎少将(後に中将/1888~1970年)は、吹雪の中に立ち尽くす難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施した。さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋した。日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(40年)まで視野に入れていたドイツは断固抗議。樋口は關東軍参謀長時代の東條中将に呼ばれる。樋口は東條に「ヒトラーのお先棒を担ぎ弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質(ただ)し、東條も受容した。滿鉄総裁が、後に外相として三国同盟に傾斜する松岡洋右(ようすけ、A級戦犯被告。未決中に病死/1880~1946年)だった点も興味深い。
痛みに情けをかけた心根
ユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られた。斯(か)かる状況下の39年以降、英米列強と日本による上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区も、ユダヤ神学生300人や1万8000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許している。