最初は直行便がなく、当時は英国領の香港まで飛行機で、そこから中国との国境を歩いて渡り、広州市まで列車で行き、また飛行機で北京へ飛ぶという、2日がかりであった。
列車では、中国側から「橋の写真などは撮らないように、米国が空爆の目標にするから」と言われビックリした。当時の中国は文化大革命の真っ最中で、毛沢東国家主席に反する言論はすべて違法だったから、交渉相手はかならず「毛主席は…」と冒頭で引用した。当時、出会った中国学者の貝塚茂樹氏は「中国人は共産主義も文革も民族的に向かないからすぐ変わる、単なる漢民族中心主義だから…」と話していたが、いま思い出すとまさに正鵠(せいこく)を射るものであった。
だが、政府が認めるだけでも54ある異民族の集合体が現在の中国という国で、それを漢民族主義で統一しようとするところに無理がある。チベット族やウイグル族があれほどの弾圧を受けるのは、民族として認めれば国家原理が崩壊するからである。しかし、それ以外のことは、日常生活や大学の講義では比較的自由だと、体験からいえる。厳しく統制されているのは外交と民族問題で、国営の通信社の新華社、テレビ局のCCTV(中国中央テレビ)、新聞の人民日報を中心として徹底される。