ソ聯軍将兵は意気地がない。戦車に守られて、160万もの大軍で滿洲や北方領土などに奇襲攻撃したにもかかわらず、各地で帝國陸軍の猛反攻に遭い、恐ろしくて逃げた者は少なくなかった。そもそも露帝國→ソ聯軍の将兵は日露戦争(1904~05年)やノモンハン事件(39年)における帝國陸海軍の精強振りがDNAに染み付いている。雲霞のごとき大軍投入は、恐怖の産物といえた。
爆雷ごと戦車に体当たり
数ある激烈な防衛戦の中で、陸軍石頭予備士官学校の幹部候補生ら3600名が行った《対戦車肉薄攻撃=肉攻》は、後の世に伝え継ぐべき戦史であり、民族史だと考える。小欄は、内920名が48時間を戦い抜き、600~700名が散華した磨刀石方面での戦闘を記す。
戦況悪化に伴い、關東軍の戦力は逐次南方戦線に転用され兵器・弾薬は実(まこと)に貧弱。「主力兵器」は工事用ダイナマイトをランドセル大に束ねた急造爆雷に決まる。幹部候補生は爆雷を抱え、小さな壕=タコツボで待ち受ける。