「私はベルリン市民」。1963年、西ベルリン入りした当時のケネディ米大統領が独語で語った。冷戦のさなか、東ドイツ内に取り残され、不安を抱く西ベルリン市民を励ました言葉は今も語り継がれている。
ドイツ敗戦で米英仏とソ連に分割統治されたベルリンは、米ソ対立の影響にさらされていく。ソ連は48年、米英仏が占領する西ベルリンへの通路を封鎖。米英軍が物資の空輸作戦を敢行した。約1年で封鎖は解かれたが、東西ドイツが49年それぞれ建国され、61年8月にはベルリンの壁が建設された。
壁の目的は東独国民が西ベルリン経由で脱出し、労働力が流出するのを防ぐこと。当初は有刺鉄線などだったが、高さ3.6メートルのコンクリート製などに拡充され、壁に沿った監視用の立ち入り禁止区域は「死の地帯」と呼ばれた。
「壁はまだ50年も100年も残る」。東独のホーネッカー社会主義統一党書記長がこう強調したのは89年1月。だが、改革に消極的な東独の体制も民主化の波に抗(あらが)えず、89年10月、ホーネッカー氏は失脚。11月4日の東ベルリンのデモの規模は100万人に達した。