だからこそ、事件数時間後にはデモの名所レピュブリック広場に約10万人が自発的に結集し、事件4日後の「共和国デモ」には仏全土で約370万人が党派の相違などを乗り越えて結集した。この事件は一部で誤解されているように、決して“イスラム教(宗教)対西欧文明”の対決や価値観の対立ではなく、《テロ対民主主義》の「戦い」(バルス仏首相)だ。少なくとも、フランス人はそう考えている。大規模デモの名称が「共和国行進」と命名されたのも偶然ではない。「私はシャルリー」の「シャルリー」は「自由」の代名詞だ。下品でどぎつい風刺を必ずしも支持していない人たちも参加したゆえんだ。
いわゆる「1968年5月革命世代」が中心になって生まれたシャルリー・エブド(当初の名称は「ハラキリ」)の風刺、挑発の対象は当初、当時影響力を誇っていたカトリックだった。政治家も軍人も人気スターも大富豪も例外ではない。風刺が文化であり伝統であるフランスでさえもシャルリー・エブドが抱える係争事件は名誉毀損(きそん)など実に「約80件」と伝えられる。ただ、法律に訴えても、テロという極めて野蛮で卑怯(ひきょう)な手段に訴えたのは今回が初めてだ。