収城使名代として現れたのが、赤穂藩家老、大石内蔵助(くらのすけ)である。立て籠もって一戦辞せず-という強硬派もいたことだろう。大石は城内に乗り込み、松山藩家老、鶴見内蔵助と交渉。無血開城に成功している。
だが、大石はその後、赤穂城を明け渡し、江戸の吉良(きら)邸に討ち入ることになる。なんという巡り合わせだろう。幕末の藩主は、板倉勝静(かつきよ)。逸材だった。幕府の老中に抜擢(ばってき)された。戊辰(ぼしん)戦争。板倉は居城から遠く離れた東北地方や北海道を転戦。新政府軍と戦っている。松山の城下町は岡山藩に占領された。
さて、松山城。明治政府は廃城を決定した。ところが、天守があまりにも険しい山頂にあるため取り壊すこともできない。無人のまま、長い間、放置された。これが幸いした。昭和初期、城の大修理が行われ、往時の威容を取り戻した。天守から城下町を見下ろす。また、雪が激しくなった。(塩塚保/SANKEI EXPRESS)
■逍遥 気ままにあちこち歩き回ること。