東京美術学校での「日本画」改革は、狩野派や円山派などの伝統絵画に、西洋の遠近法や陰影法を導入することだった。教授だった橋本雅邦(1835~1908年)の「雪景山水図」では、山水画の伝統は踏まえながら、奥行きを持たせて陰影を付け、西洋絵画の技法も取り入れている。
岡倉は人事問題で校長を辞すことになり、卒業生の横山大観(1868~1958年)や菱田春草(1874~1911年)らと日本美術院を設立。日本画の改革として、線を使わず、色彩のグラデーションで描く「朦朧(もうろう)体」を模索した。朦朧体の絵は、国内では「幽霊画」などと呼ばれて売れなかったが、ボストン美術館には残っている。
そして「美術」は、日清(1894年)、日露(1904年)戦争の時代を迎え、「国威発揚」にも用いられた。
古事記など神話の世界、天皇のご真影、戦闘シーンなどが描かれ、竹内久一「神武天皇立像」は台座も含めると、約3メートルに及ぶ木彫だ。