先に書いたとおり、モデルに内面は必要ない。思うがままに操られる、いわば傀儡(くぐつ)のほうがいい。内面ある人間は、それに耐えられない。しかし、抜け殻のように空虚であるがゆえに、なんにでも化身できる、それがモデルだ。そのことを丸ごと受け入れることで、彼女は、モデルであるがままにモデルを超える存在となった。それは世に言う「スーパーモデル」とも違う。「山口小夜子」としか呼びようのない存在になったのである。
確立されたスタイル
この展覧会では、写し身であるがゆえに、なんにでも化身できる力を得た山口小夜子が、そのつど、とりどりの衣服に身を包んだすべての小夜子たちとなり、一斉に並べられている。あるときはポスターに、またあるときは写真に、さらには映像に、人形に、遺品に。彼女はなんにでもなることができる。しかし、それでいて全員が、山口小夜子なのだ。