さらに大胆に考えてみよう。もしも山口小夜子が、なんにでもなれる器なら、たとえ肉体としては滅びても、山口小夜子という「スタイル」は生き延びる。言い換えれば、彼女の存在感を、ほかの誰かが受け継ぐこともできる。とすれば、山口小夜子は死んでも、彼女の気配を生き生きと再現することは可能なはずだ。黒くて長い髪、死者のように真っ白な顔、すらりと長く延びた、蜘蛛(くも)のような手足、鉢を被ったようなおかっぱ、喜怒哀楽が浮かび上がらない表情…これらの条件を一定の次元で満たせば、そこにはもう一度、彼女が姿をあらわす。まるで蜃気楼(しんきろう)のように。
けれども、山口小夜子とはもともと、蜃気楼のような存在ではなかったか。陽炎(かげろう)のようにゆらゆらと、資本主義という果てしない砂漠のなかに立ち上る、幻影なのではなかったか。
だとしたら、本展で、まるで山口小夜子が目の前に生き返ったかの錯覚に陥ったとしても、不思議ではない。私は生前、彼女に2度ほどお会いしたことがある。が、そのときも、彼女はまるで広告やテレビの画面のなかと同じように目の前にいた。その感覚は、彼女が亡くなって、こうして写真や人形という死物を通じて再会しても、あまり変わっていない。