しかし今思えば、私には男として寄り添ったのではないだろうか。甘えて擦り寄って来る様は、飼い主に甘えるというよりも、どうも恋のようなものに近いような気もして、それでいて面白がってあまり近寄るとフランシスのようなことになってしまいかねないので、適度に距離を取る、それもまたノエルの満たされぬ恋心をくすぐったのではあるまいか、などと無益な妄想を広げている。
年を重ねてからのノエルは次第に社交的になり、猫ゆえにその表情にまだかわいさはしっかりと残すものの、ぐっと老練して、男の気をひくなんていう軽薄はせず、母や、むしろ同性である私の妻と静かに過ごすことを好んでいるようにも見える。それにしても、子猫のときからかわいがっていたものが、寿命から数えれば、私をすっかり追い越していったわけである。とすると彼女の中で流れていた時間は明らかに私のそれとは違うわけで、一体彼女の瞳に世の中はどのように映じているのだろうか。一日一日はわれわれのそれよりももっとずっと濃いのかもしれない。夜明けから暮れていくまでの光を捉えるその目に映る鮮明は、ああしてふと立ち止まってじっと見つめる程に美しいのかもしれない。彼女たちの空を見つめる時間(とき)に、猫にのみ可視化された粒子のうねりを思わずにいられないのだ。