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「アップルvsサムスン」 微妙なデザインの差…なぜ注目を集めるのか

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「アップルvsサムスン」 微妙なデザインの差…なぜ注目を集めるのか

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 テーブルの向こうに相手のスマートフォンが置かれている。それもカバーつきだ。画面が真っ黒で、その製品がどこのメーカーか、遠目には分からない。相手がスマホをいじり始める。チラッと見えるアイコンの種類や操作の手つきで、「あ、ぼくのと同じだ」と思ったり思わなかったりする。

 アップルとサムスンがスマートフォンとタブレットコンピュータで、技術特許やインターフェースを巡って世界10カ国以上で係争している。アップルがサムスンを訴える、サムスンがアップルを訴える。どちらもある。ハードの形状も対象になっている。提訴の中身はそれぞれの国で違うし、勝敗の結果は国によって異なる。アップルが米国で勝っても、サムスンは日本で勝つ。負ければ控訴するので決着に至るには時間がかかる。

 両社のグローバル市場における今後のシェア争いは、裁判の結果にも大きく左右される。しかもアップルの行方を阻もうとしているのはハードメーカーだけではない。グーグルやアマゾンなど今までと違った舞台にいた役者も立ちはだかる。現在この土俵に立てていない日本勢もバトルのフォローは欠かせない。

 しかし、この問題には業界外の人も行方を熱心に見守っている。特に一見なんの変哲もないデザインが「似ているか、似ていないか」は誰もが直面する可能性のあるテーマだからだ。

 だいたいからにして、多くの人が自分の目に確信がもてない…。

 世の中、電源OFFである限り単なる「ブラックボックス」というモノが急速に増えている。コンピュータの時代なのだ。機能のメーンは画面内になりハードは「補助的存在」でさえある。

 だからこそ従来よりも、デザインの僅差が注目を浴びる。しかも世界各地で微妙さへの「判断」が異なる。そこで「判断」の差異を生む背景として、イタリアの中等教育の一例をあげよう。

 「古代からヒトは経験したことを絵、文字、音などを使って記録してきた。それが美術、文学、音楽というジャンルを生む。絵画は詩とは異なった表現だ。が、実際の経験は両方とも同じと認識すべきだ」

 このように中学校のどの科目も、モノの見方や領域の定義を最初に説明する。

 徹底して模写のトレーニングをする。ピカソの模写、世界地図の模写、動物画の模写…そして、基礎となるカタチが何であるか、身をもって知る。そのうえで「自由」がある。「アートは自由に感じるもの」ではない。ぼくが日本の学校でうけた「君たちは、最初から好きに描いていいんだよ」という教え方とはずいぶんと違う。

 地域間でこれだけカタチへの教育に違いがある。そうしたなかで製品デザインの類似性が世界各地で問われている、との現実がある。

 ビジネスの成否が「売れるデザインか?」だけでなく、「各地のデザイン観を理解しているか?」に拠っている。それは、あるデザインがコピーであるかを判断するプロセスにも影響する。

 A国では「消費者が一目でコピー品とオリジナル品の区別がつくか?」が、デザインの類似をみる際に優先的な項目になる。いわば素人目線の重視だ。B国では素人の意見もヒアリングするが、意匠の専門家による形状の定義が尊重される。

 スマートフォンもタブレットもグローバルコミュニケーションの象徴である。各国の伝統や文化とはあまり関係のない「世界を股にかける」モノだ。ソフトウェアにおいては地域適合が求められても、ハードのデザインにそのような配慮はあまりない。

 「我々はグローバルに動き回る先端的なユーザーを相手にしている」とメーカーは語り、ユーザーもボーダレスを謳歌することを夢見る。

 しかし「競合製品と類似であるかどうか」が法の世界に入ったとき、デザイン観の地域差がビジネスの生命線を決定する要素になっているのだ。

 法律の解釈の仕方は文化理解の鍵である。アップルとサムスンの係争にはネガティブな面も多いが、両社が多くのアドバンテージを得る、との面もあるに違いない。

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