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【東日本大震災4年】「役に立ちたい」 若者ら新たな一歩

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【東日本大震災4年】「役に立ちたい」 若者ら新たな一歩

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今春、社会人として看護師の道を歩み始める佐々木日可吏さん=2015年3月9日、福島県福島市の福島県立医科大学(森本充撮影)  ≪「笑顔あふれる地元に」 佐々木日可吏さん≫

 東日本大震災直後の混乱の中で大学に入学した学生が今春、巣立ちの時を迎える。福島県立医科大学(福島市)4年の佐々木日可吏(ひかり)さん(21)もその1人。卒業後は県立医科大付属病院で社会人として看護師の道を歩み始める。「地元の役に立ちたい」。確かな将来像を描いている。

 実家は、福島県沿岸部の南相馬市原町区にある。海のすぐ近くだが、少し高台にあり、家族は無事だった。しかし自宅は浸水被害を受けた。地元の様子も一変。あれから4年が経過した今も同じような状態が続く。

 「震災前は(実家から)海は見えなかった。でも今は、津波被害を受けて民家がなくなり見通せる。夜も人影は少なく、寂しくなりました」と話す。

 被災で大学進学を諦めた同級生もいるという話を周囲から聞いた。

 自分だけが地元を離れ新たな道に進んでいいのか、自宅の修繕を控え経済的重荷になりはしないか-。罪悪感を覚え、進学を諦めようと思った。だが両親は「夢を諦めるな」と背中を押してくれた。だから、4年間、勉強に打ち込めた。恐らく震災がなければ「何気なく学生生活を送り、県外の都会に出て生活していた」と思う。

 だれにも気軽に話しかけられる土地柄に青い海、温かな家族…。震災前は、当たり前で、気にしなかったことが、大切だったことに気付かされた。

 2013年1月、地元の成人式で代表として誓いを述べた。地元への思いを考え抜いて言葉にした。

 《復興に向けて、軸となるのが、私たちであり、もう一度、笑顔のあふれる地元にしていくことが私たちの役目です》

 幼いころ、祖父の緊急入院で動転する父親らを「心配はない」と励ましてくれた看護師の姿にあこがれ、自分もなりたいと夢を抱くようになった。

 「式で誓ったことは忘れていません。だれもが安心して毎日を笑顔で暮らせる手助けをするために(大学病院で)経験を積み、必ず地元に戻ります」。笑みの中に、確かな意志をのぞかせた。(森本充、写真も/SANKEI EXPRESS

 ≪「命救う仕事に人生賭けたい」 恵津宗広さん≫

 街を相次いで襲った地震、津波、火災は、あらゆるものを奪い去った。東日本大震災で変わり果てた宮城県石巻市の市街地に漂っていた焦げた臭いと無力感は、4年がたつ今も記憶の中に染みついている。震災当時、石巻税務署に勤務していた恵津宗広(えづ・むねひろ)さん(27)は、4月から仙台市消防局で消防士として一歩を踏み出す。「人の命を救う仕事に人生を賭けたい」。震災で目の当たりにした消防職員の姿が、新たな世界への挑戦を後押しした。

 大学を卒業後、石巻税務署に配属された恵津さんは4年前のあの日、電話で納税者からの問い合わせを受けている最中、大きな揺れに気付いた。直後から停電となり、確定申告の書類が次々と棚から落ちたが、津波への危機感は薄かった。帰宅指示を受け、徒歩で自宅へ戻る途中、「逃げろ! 津波だ!」という誰かの声が聞こえた。来た道を必死に税務署まで走り、「津波が来ました!」と叫んだ。

 震災で、ホテルから避難者をヘリコプターで救助する消防職員の姿が心に焼き付き、自問自答を続けた。大学時代、消防職員の父(59)に憧れ、仙台市消防局の採用試験も受けたが、不合格に。「自分がやりたかったのは、緊急時に困っている人に直接手を差し伸べられる仕事だったはず。なぜ、あと1年頑張って消防に入らなかったのか」。災害を前に何もできない無力感と、後悔が募った。

 2014年2月、「後悔して過ごすよりもこの仕事に賭けてみたい」と退職し、退路を断って採用試験に再挑戦した。結果は合格。日頃、無口な父に報告すると、一言、「よかったね」と言葉をかけてくれた。

 「精神的にも肉体的にも強さが求められる仕事だが、人を助けられる存在になりたい」と恵津さん。震災をへて培った決意は「かつての漠然とした憧れとは違う」と断言。「震災で多くの人に助けてもらった分、全国の災害現場で活動していきたい」。その言葉に、もう迷いはない。(滝口亜希、写真も/SANKEI EXPRESS

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