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広島 原爆の日 「二度とないように」 誓いの祈り

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広島 原爆の日 「二度とないように」 誓いの祈り

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原爆投下時刻に合わせ、黙祷(もくとう)する親子=2015年8月6日午前8時15分、広島県広島市中区中島町の平和記念公園(共同)  原爆投下から70年の節目を迎えた広島。あの日を振り返り、過ぎた年月に思いをはせた。「二度とないようにする」。悲しみは終わらず、平和の願いは続く。平和記念公園には未明から多くの人が訪れ、慰霊碑に花を手向け、祈りをささげた。

 「殺してくれ」と叫んでいた父の姿が忘れられない。広島市中区の足利美保子さん(79)の父は兵隊として被爆し、約1カ月後に下痢が続いて亡くなった。父の苦しみを思い「平和が続いてほしい」と慰霊碑に祈った。

 身元が分からない遺骨が多数納められた供養塔。両親と4人のきょうだいの骨は見つからず、どこでどう命を失ったかも分からない。「70年じゃろうが、80年じゃろうが、心の中にひっついていく。終わりはない」。広島市東区の長井弘さん(81)はつぶやいた。

 「ここに眠っている」と言い聞かせ、毎年参ってきた。この日も、手を合わせ祈った。「二度とないようにするから安らかに眠ってください」

 照りつける日差しの中、つかの間の涼しさを感じさせる風が吹いた。暑さ対策のため白いテントがずらりと並び、霧状の水をまくミストシャワーも。投下時刻に合わせた黙祷(もくとう)で、女性は遺影を抱いて頭を垂れた。一方「戦争法案反対」とのデモの声が響き、安倍晋三首相のあいさつに「帰れ」などのヤジも上がった。

 広島市佐伯区の横田富枝さん(84)は学徒動員先の工場で被爆した。服がぼろぼろになり、皮膚がぶら下がった。市内をさまよい「地獄」を見た。「70年は通りすぎてみれば一瞬。世の中の移り変わりが感慨深い」とかみしめるように語った。

 新たな決意をした人も。父が原爆症で苦しみながら亡くなり、自身も被爆した佐伯区の木元晃さん(75)はこれまで、経験を語ることを避けてきた。「被爆者が減っている。若い人にできる限りのことを話したい」。いつがんを発病するかという不安を背負いながらも、これからは語り部として生きるつもりだ。

 神戸大4年の深田友紀さん(23)は、来日したフランス人の大学生(21)を連れて慰霊に訪れた。「安全保障関連法案などで社会が揺れている。こんな時代だからこそ、平和への気持ちを新たにしたい」と真剣に話した。

 ≪「写真の女学生」 沈黙破った≫

 広島の被爆直後の貴重な資料として、当日、爆心地から約2.3キロの現在の広島市南区にある御幸橋で、負傷者や応急処置を受ける人々を撮影した写真が残されている。この橋を通り、写真に写っている可能性のある女性が70年たって初めて、当時のことを語った。

 「原爆は思い出すのも嫌だ。根源である戦争の被害者にならないため、どうするかを考えてほしい」。原爆だけでなく、戦争そのものをなくすべきだと訴えた。

 あの日、13歳の女学生だった竹内節子さん(83)=広島市=は、爆心地から約1.6キロ離れた現在の中区千田町にある旧広島貯金支局に動員され、机で作業をしようとしていた。

 「ドン!」。大音響とともに周囲が突然真っ暗になり、粉々になった無数のガラス片が飛んできた。どう逃げたのか思い出せないが、付近の家屋はドミノのように倒れていたという。

 同級生らと御幸橋(みゆきばし)を渡り、自宅に戻った竹内さん。このとき一緒だった同級生は、1973年、写真に写っていたセーラー服姿の女学生のことを「私です」と名乗り出た河内光子さん(83)=広島市=だった。

 「(河内さんは)これが私だと言うの」。竹内さんは、御幸橋(みゆきばし)の写真に写るもんぺ姿の人を指さす。河内さんも「やけどした父の手当ての様子を、(竹内さんと)2人で見に行った」と、写真を見ながら証言する。

 竹内さんは記憶が鮮明でなく、慎重に答えたが、御幸橋の近くで当日、別の米軍機が飛来して土手に身を隠したことを覚えている。

 逃げる途中、熱線や爆風のため、皮膚が垂れ下がった人や、目玉が飛び出ている人を見た。「目の玉があんなに大きいとは思わなかった」

 自宅の屋根は吹き飛び、家族と近くのイチジク畑で過ごした。大きなけがはなかったが、かたまりのような大量の鼻血が数カ月続き、食料はなく、人々は道路の端を耕して、畑を作ったという。

 「思い出してもいいことはない」と前向きに生き、定年まで働いた竹内さんは、被爆は運命だったと考える。

 「今さら、痛かった、つらかったと言ったところで周りに分かってもらえるわけではなく、生活が良くなるわけでもない」

 被爆直後、道路に寝かされたまま息絶えた人々に比べたら、との思いも強かった。70年という月日が痛みを和らげたが、子供にも、被爆した事実以外は一切話さず、沈黙を守る大勢の被爆者の一人だった。

 沖縄や空襲を受けた町、戦後の生活、今も続く戦争被害をめぐる賠償や謝罪。「さまざまな形で、大なり小なり皆が犠牲者になるのが戦争なんです」(共同/撮影:共同/SANKEI EXPRESS

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