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野中が福岡県出身であることに目を付け、鉄道省から招き入れたのは、第4代社長の村上巧児(故人)だった。
村上は大阪毎日新聞記者などを経て、西鉄の前身である九州電気軌道(九軌)の第4代社長に就任した。九軌や福博電車など5社の合併を主導し、昭和17年に西鉄を発足させた。
その村上が、心底悔しがったのは、戦時統制により、手塩にかけて育てた海運や発電など有望な事業を手放さざるを得なかったことだった。同時に国家権力の恐ろしさも思い知った。「失った事業を取り戻し、西鉄を再興させるには国家官僚の力が必要だ」と考えたに違いない。
村岡は戦時中の18年7月、野中を西鉄副社長に就任させ、終戦直後の20年11月、社長の座を譲った。
そこに降ってわいたのが、国際物流事業への参入問題だった。野中には「村上の恩に報いるチャンスだ」と思えたのだろう。
「東京の物流事業も西鉄に任せてほしい。絶対に大丈夫です!」
野中は鉄道省時代の人脈をフルに生かし、東京で根回しを続けた。日本通運への出向経験があり、物流事業に精通していたことも有利に働いた。
西鉄が、福岡・天神に国際物流の営業所を開いたのは23年12月。翌24年1月には東京・銀座に、8月には大阪・淀屋橋にも営業所を開設した。