そこで楢橋は「バスならば路面電車や鉄道よりもずっと短時間で路線を拡充でき、資金もぐんと節約できる。地元自治体の協力や許認可も取り付けやすい」と考えたのだ。
だが、その道のりは容易ではなかった。第5代社長、野中春三(1896~1960)は、旧鉄道省出身だけに高速鉄道網の拡充に強いこだわりを持ち、バス事業には関心が薄かった。加えて当時の稼ぎ頭である路面電車部門は、客を奪いかねないバスの台頭を警戒し、「反楢崎」の機運が生まれつつあった。
そんな状況で楢橋の後ろ盾となったのは、経理を統括する副社長の木村重吉(第6代社長、1901~1963)だった。木村は、退任後もなお影響力を持っていた第4代社長、村上巧児(1879~1963)の女婿だったこともあり、野中もぞんざいには扱えない。
木村のゴーサインを受け、楢橋は一気に動いた。技術畑出身だけにその作業は厳格かつ緻密だった。
特命チームの社員を各地に送り込み、道路状況や潜在的なバス需要などを徹底的に洗い出させた。その上で路線案を作り、パズルを組み合わせるように運行ダイヤを組む。社員たちを1週間ほど旅館に缶詰めにし、計画書を作成させたこともあった。少しでも詰めの甘いプランを持ち込むと怒号が飛んだ。